たいようの映画の感想

映画を観て感動しても、少し時間が経てば結構忘れてしまうんです。そんな忘れんぼうな自分のための記録なんです。

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【書評】『漫画がはじまる』井上雄彦×伊藤比呂美(スイッチ・パブリッシング)

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 現在上野で開催されている『井上雄彦 最後の漫画展』には、休日ともなれば入場制限がかかるほどの集客があるのだという。これはいち漫画家の個展としては異例と呼べる賑わいだし、漫画家がこの規模での個展(と呼ぶのが正しいのかどうか分からないが)を開くこと自体が珍しいことだ。そもそも、上野の森美術館で120分の入場待ちなんて前例が今まであったんだろうか。

 では、なぜいち漫画家にこれほどまでの客が集まるのか? 彼がこれほどまでに人々の心を掴む所以とはなんなのか?
 
 本書は詩人伊藤比呂美が井上雄彦との対談により彼の作品に潜む普遍性、幅広い層から絶大な支持を集める理由、作品の誕生秘話を明らかにしていくという触れ込みの一冊だ。触れ込み通り、井上雄彦の生い立ちや各作品誕生までの経緯、執筆に対する心構えなどが語られ、井上雄彦という人物を知るのに非常に重宝する一冊である。
 しかしながら、この本は単なる「井上雄彦ガイド」という側面よりも、さらに全面に押し出されたある特徴がある。それが「詩人という独特の美的感覚を持った伊藤比呂美という人物からみた、井上雄彦解体書」という特性である。

 伊藤氏は「スラムダンク」と出会ってからの一年間はひたすらに全24巻を繰り返し読むことに時間を費やしたと本書で語っているほどに、井上雄彦に心酔している。もとからの漫画好きとも語っているが、対談の随所で感じられる伊藤氏の井上作品に対する思い入れや読み込み方は生半可なものではなく、全ての台詞をそらで言えるのではないかと思ってしまうほどだ。
 
 長年言語芸術に携わり、あらゆる表現というものに触れて来たであろう伊藤氏が読み解く「スラムダンク」は、既存のスラムダンク評とはかけ離れたダイナミックなものである。
 例えば「スラムダンク」で一番印象に残った人物として山王工業の河田兄弟の母「まきこさん」を挙げ、"真の主役"として三井寿と仙道彰を挙げ、最終的には「スラムダンク」を「現代の軍記物」であると位置づけるのだ。

 突拍子もないように感じるこれらの発言だが、その結論に至るまでの彼女自身による釈明や説明を読めば、なんとも納得がいく。漫画をここまで深読みする(深読み出来る)人がいるのかと驚くばかりである。

 本書の中では「スラムダンク」に隠されたあらゆる要素から、その後「バガボンド」に至る必然性、さらには井上雄彦本人ですら知り得なかった井上作品の根底にあるテーマまでもが、伊藤氏の手により鮮やかに白日にさらされていく。

 これらの全ては、井上作品に病的に依存した伊藤氏が、井上作品に隠された本質を探り当てたいとする探究心と、作品に対する愛があるからこそ成せた業なのだろう。
 対談の会話の中では、インタビュアーが対象者に使う言葉使いとしては(伊藤氏のほうが年配者であることを差し引いても)ちょっとフランク過ぎるんじゃないのかと疑うような箇所がいくつもある。しかも二人は対談の冒頭では初対面だったという。
 しかし、そのフランクで打ち解けた会話の中からは、伊藤氏の作品に対する探究心と愛が途絶えることなく溢れ続けているのだ。だからこそ井上雄彦も彼女のその並々ならぬ感情に応えようとし、結果として様々な真意が露になることになったのだろう。

 表層的な内容に終止しがちな対談集において、これほどまでに両者が打ち解け、ひとつの場所に向かって行くものというのはかなり珍しいのように思う。


 本書は正確には「井上雄彦ガイド」ではなく、伊藤氏が自らが抱える井上作品に対する疑問が解消されるまでの過程を記したものに過ぎない。結果として漫画家井上雄彦の人間観を明らかにし、最高の「井上雄彦解体書」となってしまったのだ。

 ある作品の根底に潜むなにかを見極める時に必要なのは、客観性でも審美眼でもなく作品に対する愛情と探究心なのだということを、さらにそれは作品だけでなく人と向き合う時だって同じなのだということを、本書は教えてくれているかもしれない。


(2008年/スイッチ・パブリッシング)

| 本について | 00:27 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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ぐるりのこと。 (シネマライズ)

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 世の中はいつからこんなに混沌としてしまったのか。いつからこんなに殺伐としてしまったのか。
 人間関係はいつからこんなに希薄になったのか。
 いつから日本は、こんなにも歪んでしまったのか。

 前作『ハッシュ!』で世界的にも好評価を得た橋口亮輔監督が6年ものブランクを経た今作は、今の日本と日本人を掬いあげるような暖かい視点で描いた秀作だ。


  *  *  *  *  *


 法廷画家とその妻を物語の中心にすえ、裁判所の中の犯罪者たちと、この夫婦の変化が1990年から2000年までの10年の時間軸で描かれる。流産や家族関係をきっかけとして妻は精神を病むようになり、裁判所の中では猟奇的な犯罪を犯したものたちが裁かれていく。
 「家庭/夫婦」と「裁判所/社会」は最後まで交わることはない。主人公である法廷画家が、その間を往復するだけだ。
 
 物語の中の裁判に登場する人物たちは、どれも有名な、世間を震え上がらせた犯罪者たちだ。地下鉄サリン事件、池田小無差別殺傷事件の宅間守、文京区幼女(春奈ちゃん)殺害事件の山田みつ子、中でも有名なのが幼女連続誘拐殺人事件の宮崎勤。

 傍聴席で経を唱え始めるオウム真理教の信者たちや、「疲れたーもう帰りたいー」などと発言する宮崎勤など、彼ら裁判の様子は常人の目にしてみれば不可解そのものであった。その不気味さと平行して妻の変化が描かれ、「社会/夫婦」の状況のリンクが見て取れる。

 しかし妻は立ち直る。
 それは不器用だがいつでも穏やかに妻に寄り沿おうとした夫の優しさであり、温かみだった。

 こう書くと、「社会の歪みだって愛で解決できる」なんて暗喩するような能弁な映画かと思われるかもしれないが、そうではない。
 監督は社会の変遷と夫婦の関係性の悪化を平行して描きながらも、社会や猟奇的殺人犯の混沌を弾叫するわけではない。むしろそれらは夫婦のごく身近に隣接しているかのように、ちょうど並び合ったレールの上を伴走する列車のような関係性で描かれる。 そして夫婦の再生を華々しく賛美するわけでもない。

 最近では心に傷を負った主人公の再生の物語、なんて内容の映画が腐るほど作られているが、それらとも確実に異なるしっかりとした感慨を与えてくれる。
 それは、監督自身も経験したという欝を初めとした人間描写の繊細さと、決して上手いわけではないのに不思議な空気感で画面を包むリリー・フランキーの佇まいの所為だろう。


  *  *  *  *  *


 監督は今の日本に至るターニングポイントがバブルの崩壊であり、変化の象徴が宮崎勤(89年逮捕)であると雑誌のインタビュー(「広告批評」08年5月号/マドラ出版)にて語っている。
 奇しくも公開間もない6月17日に宮崎勤の死刑が執行された。これはもしかしたらまた、日本がひとつの時代を終え、再び変遷に向かうターニングポイントなのかもしれない。

 だけれども、社会が変り人間関係の様相が変ろうとも、そう容易く変らないものもある。 
 夫が繰り返した浮気が妻の精神を苦しめた原因のひとつとなったように、悪事はぐるりと回って自らの元にもどってくる。
 猟奇的な犯罪が平凡な家庭と著しく乖離しているわけでは決してなく、ぐるりと囲んだ同じ地平の上で起こる身近なできごとなのである。
 そして人と人とが関わり共に暮らすということの素晴らしさ、その礎はまだこんなにも暖かく残っている。
 この映画はそう、語りかけてくれているのだと思う。

 
(2008年/日本/橋口亮輔監督)

| 映画 ☆☆☆☆ | 04:28 | comments:2 | trackbacks:8 | TOP↑

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パラノイドパーク (シネセゾン)

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 カンヌでパルムドールを受賞した『エレファント』と同じ匂いが漂う、ガス・ヴァン・サント監督最新作。主人公は『エレファント』と同じく、アレックスという名前の少年だ。

 恋人がいて、戦争を気に病み、両親は不仲だがそれほど心を痛めてはいない普通の少年。だが彼は、ほんの些細なきっかけで大きな事件の加害者となってしまう。
 少年は動揺する。
 だがそれは大きな事件を起こしてしまったことよりも、良心に苛まれる自分となんとか隠し通そうとする自分の間に立ち、生まれて初めての自我の葛藤に出会ったことによるもののようにスクリーンに映る。その葛藤は誰しもが持ち合わせるものだが、アレックスのそれは「人殺し」という16歳がひとりで抱え込むには
あまりに重い現実なのだ。

 16歳というただでさえ多感な時期に、誰にも打ち明けることができない秘密を持ってしまったとしたら、そしてそれが世間を巻き込み、自分の人生を大きく狂わせるほどの秘密であったとしたら。

 そんな少年の内面世界での葛藤や苦しみは想像を絶する。
 しかしながら、映画ではこの心の揺れを柔かく緩やかに描く。相変らず少ない台詞で、音楽と映像を混ぜ合わせて少年の心象風景を描写していく。人を殺めてしまった普通の人間があんな静かに過ごせるわけがないといった声が聞こえてきそうだが、あの静けさこそが、この映画のリアルだ。

 救いを求めようにも誰に打ち明けることもできず、しかしながらその罪の重さに押しつぶされることもなく淡々と毎日を送るアレックスの、無表情さ。静けさ。
 
 あの姿こそが今の若者の姿をリアルに映している気がしてならない。


  *  *  *  *  *


 劇中では恣意的なスローモーションが随所に散りばめられ、なにかが起こりそうな間と空気を幾度となく作っておきながら、結局は何も起こらない。それらの映像が実に印象的にアレックスの葛藤や事件以前の自分に対するノスタルジーを表現している(鑑賞後に撮影がクリストファー・ドイルだったと知って納得した)。
 しかしながら結局はこの映画も、『エレファント』で犯人の少年らがあの行動に至った理由を解明しなかったのと同様に、物語としての結末を描かない。それどころか、アレックスが心に秘めた核心を上手に避けながら彼を描いていたとすら言えるかもしれない。

 結末や本質を客の想像に委ねるというその手法自体は咎められることではない。だが、結果としてアメリカの銃社会の問題点やあれほどの事件の犯人も「普通の若者」だったということを浮かび上がらせた『エファント』に対し、『パラノイドパーク』が抽出したこととは一体何だっただろうか。

 偶然犯してしまった罪に苦しめられる少年を通して監督が描こうとしたのは間違いなく《現代の若者》であり、それはある種のリアリティーを持ってスクリーンで表現される。しかしそのリアルにより監督が何を言わんとしているのか、その声は聞こえてこない。時間軸をずらして事件の真相を徐々に明かしていく手法も、「どんな罪を犯したか」より「罪を犯した少年の内側」を主題としているはずのこの映画には有効的ではなかったと感じた。

 劇中、無表情に佇みながら事件のことを回想するアレックスのカットにアップテンポでポップな音楽が乗せられているシーンが何度かある。場面の雰囲気と音楽がマッチしないこの違和感こそ、50歳を超えた監督が若者に抱く違和感だったのかもしれない。

 『エレファント』然り『ジェリー』然り、最近のヴァン・サントは実験的でパーソナルな感覚を突き詰めて映画を撮っているように思えるが、この荒涼感すら漂う映像の静謐さや観客との距離感の取り方などが、他の監督と一線を画す彼のオリジナリティーと定着しつつある。


(2007年/アメリカ・フランス/ガス・ヴァン・サント監督)

| 映画 ☆☆☆ | 03:56 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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