たいようの映画の感想

映画を観て感動しても、少し時間が経てば結構忘れてしまうんです。そんな忘れんぼうな自分のための記録なんです。

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【漫画評】浅野いにおの中に潜むプンプン的感情

ああ
 
 浅野いにおは語りかける。

 少しでいいから希望を持とうよ、と。
 こんな世の中も笑い飛ばしてしまおうよ、と。

 シリアスな感情をシリアスに捉えるのにはもう疲れてしまった。
 受け入れてしまおうよ。
 そして少しでもいいから前を向こう。

 とてもとても小さな声で、彼は語りかける。

《『ああ、なんて素晴らしい世界だ』  嘘でもいいからそう思ってみれば、 昨日よりちょっとは楽しい気分。かもですよね。》(『素晴らしい世界』より)


  *  *  *  *  *


 書店で浅野いにおの特設コーナーが作られるくらいに売れていると知ったのはつい最近のことだ。
 優柔不断でパッとしない登場人物たち、文字量の少なさ、叙情的な描写。
 この手の漫画が売れてきたのがいつ頃からなのかを僕は正確には知らないが、僕の中ではきっかけは矢沢あいだったんじゃないかと思う。

 文字量の少なさや絵の綺麗さ=読みやすさ、単純さがウける時代になった、などとシンプルに言うこともできるかもしれないが、要因はきっとそれだけではない。
 例えば岡崎京子がいまひとつメジャーではないながら絶大なる人気を保ち続けてきたことにも通じるかもしれない。南Q太や魚喃キリコややまだないとなどもそうだ。

 先日、ゲイでありコラムニストであるマツコ・デラックスさんにお会いしたのだが、彼女は「汚い物にフタをしたものが売れる時代なのよ」と言っていた。

 人間の汚い感情がまだ露にされなかった時代に人間の業や欲深さをセンセーショナルに描いた、永井豪の『デビルマン』が一世を風靡してから数十年、人は人が持つ汚い感情を嫌というほど目の当たりにし、自分の中に潜むそれらと嫌というほど対峙してきた。

 そしてロマンチシズムに浸り、汚いものにふたをした幻想的作品が売れるようになった。

 その流れの中で、前出した岡崎京子や南Q太は柔らかいタッチながら、オンナの中にある汚さや意地悪さを惜しげもなく抽出し、共感を得た。彼女たちの作品に共通するのは、オンナとしてのやり切れない哀しさが含まれていることだ。

 そこに読者はリアリティを見たのだろう。そして、哀しみを哀しみとして吐き出すだけでなくそれらの感情を肯定しているかのような作者の潔さに、読者は惹かれたのだろう。


  *  *  *  *  *


 少し話がそれてしまったが、浅野いにおについて特筆すべきは、彼が男性であるということだ。
 かつて漫画といえば勧善懲悪のヒーローものがスタンダードで、週間少年ジャンプがバカ売れした時は「努力」「友情」「勝利」の3大テーマが漫画には絶対不可欠だと思われていた。よって若き漫画家はこぞってそこを目指した。

 しかし浅野いにおは、若干22歳の時に『素晴らしい世界』で連載デビューを果たす。
 そこにはヒーローも悪も存在しない。
 そして恋愛模様も垣間見えない。
 SF的要素も存在しない。

 あるのは普通の街の普通の日常、そこで営まれる人間の生活の一見幸福そうに見える中に潜む孤独や悲しみや可笑しさ。
 そしてそれらを肯定して包みこむような暖かさだ。
『ひかりのまち』においても、恋愛を用いた『ソラニン』でも、この主題は変らない。
 
《とういか、他人の死も この小奇麗な住宅街も、 未来の自分の姿さ
えも 僕には全然現実味がなくて 時折感じるこうした孤独感のほうが ずっとずっとリアルだなぁ。》
(『ひかりのまち』より)

《平坦で退屈で曖昧な日常を生きているわたし達からは、悩むために悩んでこねくりまわした贋物しか産まれない》(『ソラニン』より)

 だがそれまで作風とかなり乖離した『虹ヶ原ホログラフ』で、彼の心の深淵が垣間見える。
 無慈悲であり、無感情で、無機質な違和感。あの井戸の底のように、暗く淀んだ感情の吹き溜まりが顔を覗かせる。
 彼はなにかに絶望している。

 たかが20歳そこそこで、と年配の人は口を揃えるだろう。だが彼は、僕らはみな、絶望しているのだ。
 社会に? 大人に? それとも自分に? それは分からない。得体の知れない何かに、だ。

 だが浅野いにおは上を向く。受け入れて笑い飛ばそうとする。
「どうにもならないさ」と諦めることをポジティブに受け入れる彼の気持ちと、それでも大手を振って「希望だぜ!!」なんて叫ぶことへの気恥ずかしさが、ヒヨコだかなんだかよくわからない生き物を擬人化して主人公に据えた新作『おやすみプンプン』で分かりやすくポップに表現されている。

 時々現れてプンプンに突っ込みを入れる八嶋智人風の神様は、自分に浸りきれない自分へ向けた自分からの声。
 あぁやって人は「もうひとりの自分」とちょっとずる重なりあって大人になるのかもしれない。

 誰かを好きになることの苦しさ、なんてイマサラすぎるテーマを、プンプンという謎の生物を通して滑稽に描く彼はもはやただの若手漫画家ではなく、漫画を用いた巧みな表現者だ。


  *  *  *  *  *


 プンプンの可笑しさと格好悪さと悲しさは浅野いにおのそれであり、同時にぼくらのそれでもある。

 本当は格好よく生きたいけれど、でも格好付けて逆に格好悪くなるのが嫌でうまく振舞えない僕たち。
 孤独じゃないハズなのに拭い去れない孤独感と、肥大化する焦燥感と、あの日になりたかった僕になれないままの僕。

 そんなダメな自分を、笑っちゃえよと浅野いにおは言う。
 一回思い切って泣いて、そしたら明日から笑い飛ばせるようになるさ、と。

 浅野いにおはそんな風に、僕たちに語りかけ、同時に自分にも語りかけている。
 彼の漫画を読んでいると、そんな気がしてならない。

《それでもプンプンはやっぱり、愛子ちゃんが好きでした。でもいくら泣いても プンプンは今 地球上でひとりぼっちでした。 》(『おやすみプンプン』より)

| 本について | 04:37 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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【書評】本多孝好「FINE DAYS」(祥伝社)

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 歌手のすべての力の源泉は、もって生まれた声にある。
 この事情は、小説家だって、まったく変らない。
 大崎善生は、その意味では、生まれもった「美声」の作家だ。
 現在の小説の世界を見晴らしても、大崎さんにならぶほど、二枚目の声をした作家というのは数少ないのではないだろうか。
 すぐに思いつくのは、本田孝好くらいのものである。


(大崎善生著「九月の四分の一」文庫版収録の石田衣良による解説より)
 
 自分にとっての大崎善生とは、澄んだ言葉で洗練された孤独を綴る作家というイメージがある。それを「美声」と呼ぶのは確かに巧みな比喩であるように思えるし、本田孝好を引き合いに出すのも納得するだけの共通した感覚がある。
 だが二人が共に「美声」の作家であり、大崎氏が孤独を綴る作家であるならば、本多氏は物語を語る作家だ。

 本多孝好は推理小説でデビューしており、脚光を浴びたのも「このミステリーがすごい」でランクインしたことがきっかけなのだそうだ。しかし書店では本多氏の著作は恋愛小説のジャンルにあることが多い。
 この人が書く小説はミステリーか否かというのは難しいところだが、そんなジャンル分け自体が不毛であるとも、当然ながら思う。そのジャンル分けが難しいところ、つまりジャンルを超越する饒舌さが本多孝好にはあり、それこそが彼の最大の魅力なのだろう。

 僕は本田氏の長編をまだ読んだことがないが、今まで読んだ短編集(「MISSING」「MOMENT」)の話はどれも、簡潔に言えば現実離れしている。特にこの「FINE DAYS」はその兆候が著しい。呪い殺すわタイムスリップするわ超能力者まで出てくる。
 それでも物語として浮世離れしたSFや単なるミステリーと感じさせずに、人をしっかりと描くことで人間劇を読んでいるように思わせることができること、そして突飛な展開も不自然と感じさせない空気感を生み出せるのが、この人のすごいところなのだろう。

 僕はミステリーはほとんど読まないのでわからないが、こういうのを青春ミステリーとか言うんだろうか。

 主人公やヒロイン的女性はどれも似通ったステレオタイプだし、感情の機微を繊細に描くといった感じでもなく展開に予定調和を感じるときもあるが、それでも読みこめてしまう所以は石田衣良が言うように、先天的な才能とも呼べる「声」が素晴らしいからなのかもしれない。

 静かに胸に沁み入る言葉の数々が、実に心地よい。

(2003年/祥伝社/本田孝好)

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【書評】大崎善生「優しい子よ」(講談社)

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 一遍の隙もなく完璧に創造された世界を饒舌な文章で語られるよりも、稚拙な文章であっても現実を語られることのほうが心を揺さぶられる。
 どんなに感動的に練りこまれた物語上の死よりも、なんの変哲もなく日常に溢れるほんとうの死のほうが遥かに重い。

 僕はこの筆者の文体がとても好きだ。だから、好みの文体で読まされたことによって無用にフィットしたと言えなくもないかもしれない。
 だが、それだけでは決してない。

 この本には、筆者大崎善生に訪れた三つの出会いと二つの死が綴られている。
 その全てが、筆者の人生に大きな意味を持つものとなった。その出会いと別れ、また訪れた新しい出会いが、清々と語られる。

 一体どれだけの人間が、一生のうちで何度、こう感動的な出会いにめぐり会うことができるだろうか。
 そう考えたあとに、こうも思う。
 そういった出会いとめぐり合うことができるからこそ、彼は小説家なのだ、と。

 出会いを意義あるものにするのはもちろん誰の力でもなく、自分自身の力だ。だが、度重なる偶然がそれを気まぐれに手助けする。ただの偶然の集積でしかないが、あまりにも劇的だ。

 収録四編中、あとの三編もいい物語だと感じたことに間違いはないが、最初の一編、ある少年との出会いを描いた表題作「優しい子よ」は、痛々しく、悲しく、読み進めるのが苦しいほどに辛いものだった。
 
 死を間際にしてなお、人を思いやる気持ちを忘れなかった。
 死を間際にしてなお、望みも誇りも捨てなかった。
 たった10歳の少年がである。

 最後の一編は、大崎氏が50歳を目前にして初めて授かった子供について描かれている。それは10歳の少年が亡くなってから一年後のこと。
 大崎氏は生まれたばかりの新しい命に語りかける。君も負けないくらい優しい子になってほしいと願いながら、勇気と優しさに溢れた10歳の少年のことを。
 
 
 僕はノンフィクションは殆ど読まないが、この著者はノンフィクションこそが主戦場なのではないかと思うほどに、流暢に語る。
 今まで書かれたノンフィクション(「聖の青春」「将棋の子」「ドナウよ、静かに流れよ」)に比べると語り口は軽快で、落ち着きと安定を感じる。無理に盛り上げることもせず、事実をゆっくりと述べあげていく。
 また、過去のノンフィクション作品を思い返してみても、これ程色彩豊かな人物、事件と出会うことができるということが、まずなによりも著者の才能ではないかと思わずにはいられない。嗅覚、とでもいうのだろうか。

 読んでいくうちに、筆者の小説に対する哲学がぽつぽつと顔を覗かせる。あとがきではその悩みを素直に綴ってもいる。
 それに対し感服し感銘を抱いた。
 
 限りなく私小説と呼ぶものに近く、ノンフィクションと呼ぶには私的に過ぎると言えるかもしれない。そのせいかなんとなく、今までの大崎作品に比べると気嫌いする人が多いような気がする。
 だが、創り込まれた物語よりも余程心を揺さぶる現実に、僕は抑え切れないものを感じた。


(2006年/講談社/大崎善生)

| 本について | 00:38 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

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