たいようの映画の感想

映画を観て感動しても、少し時間が経てば結構忘れてしまうんです。そんな忘れんぼうな自分のための記録なんです。

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【音楽】チャットモンチーは本当に『奇跡』なのか

 ある人たちはチャットモンチーを奇跡と呼ぶ。
 普通の女の子3人が、手を繋いでひとつのステージに立つことになった巡り合いの奇跡。
 奏でられた唄たちが、多くの人の心を捉えて震わす奇跡。
 彼女たちが出会い、ここに至るまでの確立は何万分の一だろうか。それとも何億分の一か。
 だから彼女たちは「奇跡のガールズロックバンド」と呼ばれる。

 だが奇跡と呼ぶのであれば、山口隆や峯田和伸みたいな突然変異種がメジャーラインに上がってきたことのほうがよほど奇跡のように僕には思える。
 だってチャットモンチーは、どこからどう見たって、普通の女の子でしかないのだ。

 街ですれ違ったくらいではきっと彼女たちの存在に気付かないだろう。
 おそらく電車で隣の席に彼女たちがいたとしても、余程のファンでない限りは気付かないだろう。
 どこまでも普通なのだ。

  *  *  *  *  *

 見た目はもちろん、唄う言葉の多くも非常にパーソナルだ。
《キレイなとこだけ残して、録画、編集》 (プラズマ)
 親が電機メーカーにお勤めなのか? と勘ぐりたくもなる詞だ。
 こんなどうでもいいようなフレーズを唄う歌手は少なからずいるかもしれないが、ヴォーカル橋本は声を張り上げて全力で唄う。自分の過去の恋愛の痛々しさを唄う時も、家族への想いを唄う時も、彼女は全力で声を張る。

《言ってはいけないことを言ってしまうたび どんどん私ブスになった》 (Make up! Make up!)
《不器用な生き方なんて 望んじゃないよ 神様が助けてくれるって信じさせて》 (Y氏の夕方)
《たまに帰ればご馳走 もう子供じゃないのにね あぁだけどやっぱり あなたの子でよかった》 (親知らず)

 チャットモンチーはメンバー3人がそれぞれに詞を書く。24歳と25歳の彼女たちが書く詞は自身ととても距離感が近く、文芸の世界では最近の若者が書く小説を「自分から半径50mの世界」(正確ではないかもしれないが)なんていう風に揶揄したりもするが、彼女たちの詞の多くははまさにそれに当たる。

 だが不思議なことに、非常にパーソナルな感情を唄っているのに、それがとても普遍的な内容を叫んでいるように聞こえてくる。鋭利な言葉やセンシティブな言葉を扱っているわけではないのに、三人の演奏が交わり橋本の喉を通って発せられたそれらの言葉は瑞々しく、情感豊かに聴き手の耳に届く。
 ありふれた言葉で語られる感情は、スリーピースというシンプルなメロディーと共に、親しみをもって響く。
 彼女たちの歌は多くの、主に若い女性たちの心を捉えた。一見あまりにも普通な彼女たちが鮮やかな感情を唄い上げたことは、さらに厭世感とも呼べる言葉すらポップに唄いあげたことはセンセーショナルであり、過去に例を見ないことだった。

 だが、彼女たちのパーソナルな感情は、多くの女性たちのパーソナルでもあった。
 なぜなら、彼女たちは本当に「どこにでもいる普通の女の子」であったから。

「まるで私の感情を歌ってくれているような唄だ」
 きっと多くの人たちがそう感じたのだろう。

 普通の女の子のパーソナルな感情をシンプルな言葉と音で響かせ、さらにそれを堂々と歌い上げる 彼女たちの姿勢こそ、チャットモンチーがここまで短期間でセールスを伸ばし、女性バンドとして史上最短での武道館公演を成し遂げた所以だろうと思う。

 武道館公演の達成とは、彼女たちのパーソナルが、多くの人たちの心を潤す普遍性に変った瞬間でもあった。


 *  *  *  *  *


 パーソナルなことを叫びあげると言えば、真っ先に想い浮かぶのが前出した峯田率いる銀杏BOYZだ。彼らもまた、自身のパーソナルな(時にパーソナル過ぎる)感情を音に乗せ、そこに普遍性と共感を見出した観客たちによって盛り上げられてきた。
 しかし決定的に違うことがある。それは突き詰めて簡略化すれば、男女の差のように思う。
 峯田はどこまでも内に潜って詞を書く。言葉にしたため、ライブで唄い、観客にツバを吐き、裸になり、骨折しながらも唄い、それでもきっと彼の中にくぐもった感情は昇華されない。“佳代ちゃん”や“チヒロちゃん”への想いはきっとこれからも一生彼の胸でくすぶり続けるのだろう。彼らの歌で唄われる多くの言葉は、今現在進行中の、彼の思い。
 昔の恋をいつまでもダラダラと未練がましく思い出してしまう、情けない男の象徴のような人だ。

 だが橋本は、福岡は、高橋は、違う。
 福岡や高橋は自らがしたためた詞を橋本が歌うことにより、橋本はかつて自らしたためた詞を歌うことにより、それらの感情をきれいに昇華し、自分のものとし、前を向いて過去の感情を誇るように唄う。悲しみも、切なさも、やり切れなさも、苦しさも、彼女たちのもとにはもうない。
彼女たちが唄う負の感情は全て過去のものだ。

 だからこそ聴き手は、前を向いて高らかに歌い上げる彼女たちの叫びを心地よく聴くことが出来る。
ポップに彩られた彼女たちの音楽は、ツバを吐かなくともギターを叩き割らずとも、僕らの胸にすっと入り込む。
『恋愛スピリッツ』のような絶望の淵のように切ない曲でも、間奏で橋本は照れるように笑顔を振り撒ける。 
 とびっきりキュートな笑顔で。

《あの人がそばにいない あなたのそばに今いない だからあなたは私を手放せない》 (恋愛スピリッツ)
《私が神様だったら こんな世界は作らなかった 愛という名のお守りは結局からっぽだったんだ》 (世界が終わる夜に)
《口から出るのは 半分 文字にできるのは10分の1 〜 本物は高価すぎて私には似合わない 
 あなたの心が全部見えたら 私はひどく落ち込むでしょう》
(リアル)


  *  *  *  *  *


 今日、僕は武道館公演(『チャットモンチーすごい2日間in日本武道館』)を観てきた。満員である。普通の女の子3人のステージに。
 今や、チャットモンチーのファンは男性が多いようだ。音楽云々よりも橋本絵莉子の萌え〜な外見とキャラクターや、ミクロな外見からは想像もできないような演奏時のパワーのギャップに惹き付けられたファンだろうが、、ファンであることに変りはない。
 愛されるキャラクターを持っているということも、音楽で食って行く上ではとても重要なことだろう。

 歪んだギターの音、橋本の声をかき消すくらいにズンズン響いてしまうベースの音、ちょっと走りすぎている感があったドラムなど決して抜群に上手だなんて言えない演奏、演出や見せ場の少なさ、2時間足らずというワンマンとしては比較的短いライブ時間…。
 しかしそれでも不思議と「これがチャットモンチーです」という自信と喜びがひしひしと伝わる。
 考えて見れば当然のことだ。彼女たちは長いツアーも、そして今日も、たった3人でステージに立ち、自分たちの曲と多くの観客たちと対峙し続けてきたのだ。たった3人で。
 
 演奏的な拙さや音の歪さすら彼女たちの個性として、多くの人たちと変らない『等身大の女の子』であるチャットモンチーとしての魅力の一部となっているのだ。
 演奏がズレればズレるほど、彼女たちに込み上げる感情に胸が痛くなる。
 ギターの歪んだ音が会場に響くほどに、彼女たちの胸にある焦燥や、この日に辿りつくまでの苦難が迫ってくる。

 デビュー時の曲から満遍なくセットリストを組んだ武道館公演二日間は、まさに彼女たちの最初の集大成となっただろう。


  *  *  *  *  *


「おばあちゃんになってもチャットモンチーをやっていたい」とよく3人は言うが、もしかしたら、と思う。
 もしかしたら、この3人だったら、そんな夢のような話が現実になるのかもしれないと。
 世界に対するやり場のない怒りや孤独や苦しみや不安などの感情はをすっかり昇華しきってしまったように見える彼女たちだが、これから突き抜けるようにポップな路線に進んだとしても、もしくは新たに生まれる苦しみを歌に乗せるようになったとしても、もしかしたらと。
 ヨボヨボのババアになった3人が、自分の体くらいにデカイ楽器を前にジャカジャカ音を鳴らす光景。

 そんなステージが想像できてしまう彼女たちは、普通であるクセにやっぱり特別で、この3人が揃ったことはやはり奇跡だったのかもしれないと思わずにはいられない。

 手軽な販促的キャッチフレーズとしての『奇跡』なんかではなく、本当の意味での『奇跡のロックバンド』に、もしかしたらこれから彼女たちは本当に、なるのかもしれない。

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