「普通の人は目が見えるのになにも見ていない。
僕らは心の目で見ることができるんだ」 チベットの人口250万人のうちの3万人が全盲、もしくは重度の視覚障害者だと言われている。その比率は他の国よりも遥かに高く、そして視覚障害者は「悪魔がとり憑いている」「前世の悪行により目が見えなくなった」と信じられ、差別的な扱いを日常的に受けている。
そんな彼らが盲人として世界初めてエベレストを登頂したアメリカ人エリックと共に、エベレストの頂を目指す。
映画を観る前から、充分に感動的な物語で、予告編だけで泣けてきそうになる。だが結末の大団円も観る前から想像できてしまうような映画でもあった。
しかし、恐らくは観客100人中97人くらいは予想したであろう結末を覆した(ドキュメンタリーであるのでそうせざるを得なかったというほうが正しいかもしれないが)というところに、この映画がただの感動ドキュメンタリーとは少し違った後味を残す要員となったのだろう。
親に売られた子も、家に監禁された子も、家族全員が盲人で貧しい暮らしを余儀なくされる子も、猛反対する親を説得し登山に向かう。
目指すのは経験を積んだ大人でさえ死に飲み込まれる者が後を経たない、世界最高峰エベレスト。彼らはまだ10代の若者で、登山など未経験で、そして目が見えないという絶対的なハンディを背負っている。
だが彼らは挑む。
それは自分の人生を変えるために、世界中の盲人たちへのメッセージを届けるために。
登山の最大の醍醐味である、頂からの展望も味わえないと知りながら。
立派という以外に言葉が浮かばない僕は、不自由ない生活に慣れた腰抜けなんだろう。
そんな果敢なチャレンジに挑もうとする子供らを徹底して援助するのが大人の役目だ。
だが同時に、徹底的に彼らの安全を守るのも大人の役目だ。
「ここまで来て引き返すなら、一歩も登らなかったのと同じことだ。彼らの人生はなにも変らない」
というエリックらの意見は、まさにスポーツマン理論であるし、なにかを遂げた人の言葉として、少年たちに頂に立つ感動を味わって欲しいと願う彼らの言葉として、強い説得力を持っているように思える。だが、
「登頂なんてどうでもいいことなの。大事なことは挑戦したこと」
と語るサブリエ(チベットに初の盲学校を作ったNGO「Braille Without Borders(国境なき点字)」の創設者であり少年たちの教育者)の訴えも、教育者として、彼らの安全を第一に考える身の人間として当然のことだろう。
登頂を希望する子供たちと、徐々に子供たちの問題から外れ感情論になって行く大人たちの議論がもどかしい。
例えば結論が云々、大人たちの決断の是非が云々というのは、観た人たちそれぞれが考えればいいことであり、まずはエベレストに挑んだ子供たちを心から称えたいと僕は思った。
だが思い返せば、不遇の身にあるはずの彼らは映画の冒頭から明るく笑顔だった。胸を張って生きていた。少なくともそのように振舞っていた。そのことが僕には様々なことを訴えかけてきたし、彼らが胸を張って生きられるようにした(チベットという国の体質、盲人の現状を根底から覆すに至ったわけでは当然ないのだろうけれど)、サブリエらの努力と貢献にも、深い感動を覚えた。
エリックはこう言う。
「目の見えない僕が登山するときに昔から気を付けているのは、手を伸ばす感覚なんだ。視覚障害者にとって、それは恐怖心を伴う行為だ。その先になにがあるか分らない闇に手を伸ばすのだから。だが勇気を絞って手を伸ばさなければその先の岩は掴めないんだ」 僕は一寸先も見えない闇の中で、手を伸ばす勇気を持っているだろうか。それどころか、光に照らされよく見渡せる場所でさえ、手を延ばすことができなくなってはいないだろうか。
そんなことを考えた。
(2006年/イギリス/ルーシー・ウォーカー監督)