遠い昔、言葉はひとつだった。
神に近づこうと人間たちは 天まで届く塔を建てようとした。
神は怒り、言われた。
"言葉を乱して、世界を分けよう。"
やがてその街は、バベルと呼ばれた。
――旧約聖書 創世記11章より まさに天才の手腕か。それとも単に僕の好みのだけなのか。
恐らく前者だと思う。この監督が僕の大好物であることも間違いはないのだけれど(ここまで僕の好みド真ん中を行く監督は、この監督とラッセ・ハルストレムくらいだ)。
僕はこの作品を、人と人の間の壁、苦悩と孤独を独自の方法で描き続けてきた監督の、ひとつの頂点であると感じた。
そしていつものことながら、この監督の映画は感想が書きずらい。
監督デビュー作で全世界にその名を轟かせ、二作目にして驚くほどの豪華キャストを配したアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督。たった二作で彼は世界を虜にし、今やハリウッド俳優たちが最も出演を熱望する監督のひとりとなった。
メキシコ特有の暑苦しさが鼻についた
「アモーレス・ぺロス」も、端茶滅茶な編集が物議をかもした
「21g」も、根底にあるのは生きることの苦難、そして極限で見せる人の真の姿、そこにある悲しみであったと思う。
今作では過去二作の作風も生かしつつ、さらに世界観を大幅に広げ、人が元来もつ悲しみを見事に表現したと僕は感じた。これがひとつの頂点であるのは、これ以上スケールを広げようがないし、この映画にはそれぞれの話に(微かではあるけれど)救いがあったことだ。
三作連続で群像劇を描いた監督だが、脚本を手がけたのも三作連続で同じギシェルモ・アリアガだ。人の根底の表層だけをうっすらと掬うような脚本は淡々としすぎて言わんとすることが見えずらい難があるかもしれないが、だからこそ浮かび上がる機微があると僕は思う。そして今作では映像の見せ方もかつてよりもかなり洗練された感があった。
それにしても、娯楽大作以外の洋画が日本でこれほど大々的にキャンペーンを展開したことがかつてあっただろうか? ブラッド・ピットが主演のひとりを演じ、日本が舞台にされているハリウッド映画となれば、ヒットを見越せるのは間違いないことだが、だからと言って日本では殆どヒットしなかったイニャリトゥ映画を感動超大作ですと言わんばかりのキャンペーンをしたものだから、すっかり期待はずれの想いをひっさげて映画館を後にした人が続出しているんじゃないか、ということが心配でならない。
過去の二作を観たって、彼の映画が極端に観る人を選ぶのは明らかで、
「バベルってタイトルなのに、バベルの塔の話なんて一切出てこなかったじゃーん」
なんていう声があちらこちらから聞こえてきそうだ。
なんせ先日入ったペッパーランチでも、役所広司の顔がデカデカと張られている始末。この監督の作風とペッパーランチはまるで不釣合いだと思うのだけれど。
なんにしても、せっかくの連休なんだから話題ばかりが先行したこんな映画より、ひっそりした上映ではあるが
「明日、君がいない」を観た方がいい、なんて言おうと思っていたのだが、やっぱりイニャリトゥは凄いや、僕この人の映画大好きだわ、と改めて思わされる結果となった。
さて。
世界は土地で、人種で、言葉で、様々なもので隔てられている。
世界はばらばらになった。
だがかつて神が世界を隔てたのは、人々の言葉だけだった。
「ここは危険だ」と村を不安がる観光客。
聾唖ということだけで顔をしかめる若者。
"政治的問題"によって遅れる救援。
それらは言葉の問題だけではない。
心まで離れてしまったのはいつからだろうか?
同じ国の人とでも、伝えられないことは腐るほどある。
今や世界はあらゆるもので隔てられた。
海の向こうにいる友人に、
すぐ隣にいる恋人に、
なにを伝えればよいのか。どう伝えればよいのか。
神の怒りによって言葉を隔てられた僕らは今、いったいどれだけのもので隔てられてしまっているか。
そしてそれらを作ったのは決して神ではない。
そんな深い感慨と、劇中何度も繰り返された「listen」という台詞が、頭から離れない。
「境界を形成するものは、言語、文化、人種、宗教ではなく、私たちの中にある」
――監督コメント(公式サイトより)
(アメリカ版では、「listen」という単語が副題的に用いられていたらしい)
(2006年/アメリカ/アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督)
こんばんは
監督、そんな言葉を言っていたのですね。
監督は伝えようとした、それを我々がどう受け止めたのか?
それこそ、試されてるんだと思いました。
TBさせてくださいね!
| カオリ | 2007/05/21 21:36 | URL | ≫ EDIT