
ガス・ヴァン・サントがある日あるフィルムを観てこう思った。
「30年前からこんな映画を待っていたんだ」
彼は製作総指揮という立場で携わり、その映画はサンダンスで好評を得た。
全米公開がなされると驚異的な反響で迎えられた。
それは20年間撮り貯めたフィルムをパソコンで編集した、制作費たった200ドルの自主映画。
Tarnation …天罰、破滅、地獄に落ちる、永遠の断罪 (公式サイトより)
かつて子役として人気を博していたレニーは、不慮の事故がきっかけで脳に障害を負う。治療として続けられたショック療法により損傷はさらに致命的なものとなった。
年を経て結婚したレニーはすぐに子供を授かるが、妊娠を知らぬうちに夫が家を出てしまう。
子供を抱いて路頭を彷徨い、子供の前でレイプされた。
レニーは暴力事件を起こし逮捕され、精神病院を転々とすることとなる。
そのレニーの息子、ジョナサンが11歳の頃から自分を取り貯めたフィルムが、この映画であり、物語はここまでが序章である。
まず、誰もがそうであると思うが、なぜ11歳の少年が自分を撮り続けなければならないのかと疑問に思う。
だがそれは映画を観て納得することが出来た。
幼いジョナサンが涙を流す夫人の芝居をするシーンがある。それも迫真の芝居である。11歳の少年が、どうして"レイプ"や"虐待"なんて言葉を用いて一人芝居をしなければならないのか。
彼は11歳で完全に自分を見失っていたのだ。ゲイに目覚め、(これは短絡的な言葉かもしれないが)すでに精神を病んでいた。その彼が辛うじて自分を保つ術がフィルムだったのかもしれない。
「僕は一体、何をしたから、こんな人生、こんな苦しみ、こんな報いを受けるのだろう。自ら選んだものではないのに、ただ手放しで引き受けるしかない人生。なのに、僕はそれでも母に、自分に愛情を与え続ける。母親の精神病、家族の呪縛、それに僕にも精神的な問題が表れ始めた…。それでも僕は真実を見つめようと思う。僕の膨大な個人史と共に、愛する母レニーへのラブレターとして」 体を売り、自傷行為に耽り、一通りのドラッグを試して後遺症を残した十代の頃の彼が、自分に向けられたカメラに見せる表情はどれをとっても鳥肌が立つほど恐ろしい。同じ人間とは思えないような異質な光を放ち、つねになにかを睨んでいるようだ。
母と自分の生い立ちをスタイリッシュな映像と字幕で語ったあとに展開するのは、奇抜な映像だ。
かなりの感覚を持った人なら中盤の映像もスタイリッシュと形容することができるかもしれないが、普通の人からすれば奇抜すぎて退屈するような映像である。不快ですらあるかもしれない。
「自分の頭の中へ観客を迎え入れようと思った」 ジョナサンはそうコメントを残している。
観客は彼の頭の中に入り、様々な苦悩とドラッグに犯された世界を彷徨うことになる。その混乱と苦痛の何百分の一かを共有することになる。
いや、何千分の一かもしれない。
結果として、彼が20年分の記録を編集して訴えたかったもの、もしくは創りたかったもの、“見つめようと思った”ものとはなんだったのか。
ラストカット、眠っている母レニーを見つめるジョナサンは、かつての苦しみや困難を乗り越えてようやく安息の地に辿り着いたかのように微笑む。かつてを懐かしんでいるようでもある。
20年分のフィルムで自分と家族の姿を曝け出し、一本の映画として繋がったその上で、レニーとジョナサンもしっかりと繋がれた。この90分で描かれたのは、どんなときでも母親を想い、求め続けてきたジョナサンの切実な感情。たったそれだけなのだと僕は感じた。
だからこそ誰に向けられたものでもない、ただ母親へ向けた、“魂のラブレター”。
20年に及ぶ自らの記録を用いた映画という極めてパーソナルで珍しい形のドキュメンタリーであり、撮る側と撮られる側の距離というドキュメントにおいて非常に重要な位置づけを軽くすっとばした興味深い映画であった(これは年末に
「チーズとうじ虫」を観た際にも強く感じたことである)。
この映画は図らずも、「精神病」というレッテルを張られた母と「ゲイ」という異端なジョナサンが、いかに「自由の国」アメリカから苛まれて生きてきたかという歴史も示している。
そして同時に、ジョナサンから世界へ向けられた希望の光でもあるように思う。
十代の頃睨んでいた世界よりも遥かに美しい世界を、彼は今母と共に観ている。
たとえどんな場所からでもまた昇っていくことが出来る。
そう言われているかのようだった。
(2004年/アメリカ/ジョナサン・カウエット監督)