【懺悔しよう、愛のために】 映画のキャッチコピーはこうだ。
では彼が抱いていた「愛」とは一体誰に向けてのものだったのか。
父は進化論を否定するほどの熱心なキリスト教の牧師。教会で演説をし、家族も当然キリスト教信者。特に息子は学校で「進化論だけでなく神による創造論もカリキュラムに組み込むべきだ」と直訴するほど(全く関係ないが確かブッシュも同じようなことをほのめかしたことがあったなぁ)。
「神は我々を見てくださっている」
「神は意味のないものを創らない」
父はそう繰り返す。
そんな父の過ちこそが、婚外出産で生まれたエルビス。
聖書に厳格な父のその過ちが家族にとってどれほど衝撃的だったか。
「神は聞いてなんかいないわよ」
母のその言葉が全てを物語っている。
息子が失踪しようとも神は助けてくれない。
娘の不逞も神はそれを正してはくれない。
そして、家族を崩壊へと導くものを罰することもない。
キリスト教におけるタブーをことごとく破っていくこの展開は、確かにアメリカ本国で話題になるのも頷ける内容だ。
そしてこの映画の恐ろしさは、そうしたタブーももちろんだが、この淡々とした、罪を罪と感じさせない雰囲気なのだと思う。
殺人が起きても、兄妹が交わり合っていても、まるで"これが普通だよ"と言わんばかりに日常的な映像で見せている。盛り上げも強調もしない。それはエルビスの毎日の延長線のように描かれる。
淡々とした空気の中で描かれる、重大な罪。
それぞれに罪を抱えながらも神に加護を求める家族を、冷笑さえ浮かべながら抹殺していくエルビスこそ、神々しく映る。
なんという皮肉だろう。
この映画は観客に徹底的に感情移入を許さない。許さないというよりは、感情移入できるほど真っ当な登場人物が一人もいない。
エルビスの復讐劇は観るものに不可解な印象すら与える。なぜそこまでする必要があるのか、と。そもそも復讐をする必要があるほど彼から切羽詰った印象を受けることは一度もないし、どうせ復讐するならもっと別の方法があるだろうとも思う。
これはおそらく、自分が無宗教であるからだろう。
同時に、無宗教派が大多数の日本人には、この映画の本当の恐ろしさというのは理解できないのだろうとも思う。
かつての罪を牧師自ら告白させ、娘にも同じ過ちを繰り返させる。
それは熱心なキリスト教徒にしてみれば、単純に殺されるよりも残酷なことなのだろう。
(同じような例で
「オールド・ボーイ」がある。この映画は日本人にはあまりその衝撃度が伝わりにくいが、本国韓国での最大のタブーを犯した衝撃作と言われている。)
そして説明をせずに中途半端なところでブラックアウトさせ、小説で言うところの「行間を読ませる」ようなあの間も、アメリカ人には相当響いたのかもしれない。
ガエル・ガルシア・ベルナルはまたしても過去の作品とは打って変わった役柄に挑戦している。海軍上がりということで恰好悪くて似合わない(本当に似合っていないと思う)短髪にし、感情を全く表に出さず、表情の変化すら殆ど見せない。
正直なところ、彼の魅力というのはあまり出ていなかったように思う(彼が目当てだったのに…)。まあこれは役柄上仕方ないけれど。
印象に残ったのは音楽だった。
三拍子の牧歌的な印象を受ける音楽を終始用い、スクリーンで描かれる数々の罪までも日常的な印象へと変えている。そしてラストシーンだけはトーンを落とし、映画が映さなかった最後の復讐を、悲劇的なラストを見事に語っていたように思う。
古い御伽話を現代風にアレンジしたような、どこか寓話的で、神話的で、紛れもなく悲劇的で救いのない物語。
「現代のアメリカ社会の偽善を見事に暴いた」とも言われるこの作品だが、その全てを読み取れるほどの知識が自分にはなかったみたい。
そして、16歳のマレリー役を演じたペル・ジェームスとう女優が実年齢は28歳ということに、いちばん驚いた。
(2005年/アメリカ/ジェームズ・マーシュ監督)