2006.06.06 Tue
バッシング (シアターイメージフォーラム)

『これはフィクションです。
登場する人物や団体は、実在するものとは一切関係ありません』
最初にこうテロップが表示される。映画の冒頭でこんなテロップが流されるのは珍しい。だが、そう、この映画はフィクションなのだ。
「リアルな再現ドラマは、この話に関しては作りたくなかった。実際にあった話なんだけど、中身は全部こっちで作ったと。その題材を使ってあるひとりの女性の内面を描きたかったんです」(CUT/2006年6月号)
小林政広監督はこうコメントしている。しかし観るものの大半は主人公有子を、実在するあの女性として見る。
そのように観客にこの映画をノンフィクションとして観られる抵抗感、もしかしたら危機感を感じていたのかもしれない。この題材を扱った時点で、この映画は既に充分すぎるほどにリアリティを持ってしまっている。
そのリアリティを排除して、あの事件とは少し切り離したところで、寓話的なものに仕上げようとした監督の意図を感じた。馬鹿みたいに棒読みで台詞を言う役者が、リアリティを排除しようとした演出の最たる例だったのではないだろうか。
カメラは彼女とその家族が追い込まれていく様子を、常に客観的に感情を挟まずに追っていく。淡々と延々と、彼女が苛まれ閉じこもっていくさまが描かれている。そんな彼女を、ステレオタイプのような人間達が非難し続ける。彼女への非難は一方的で際限がなく、恐ろしい。匿名の心理、大衆の心理の危険というものをはっきりと見せている。
だが、だからと言って彼女を慈愛に満ちたマザー・テレサとして描いているわけではない。カメラは常に客観的に捉えているだけだ。そこに映し出されるのは、彼女も世間に馴染めない女性という事実だ。
「君はいろんな人に迷惑をかけたんだぞ」と恋人に言われても、「迷惑、誰に?」と答える。
コンビニに行くたびに大量のおでんを、全て別の器に盛ってもらい、その全てに汁をたくさん入れさせる。
特にこのおでんのくだりは、劇中何度も登場し、彼女の他人への配慮の不足、大人としての未成熟を描いている。
あの事件のことを思い返してみる。
僕は当時、彼女達がしたことが間違いだったとは思わなかった。だが彼女達のために多大な費用が国庫から負担されたことは事実であり、世間から厳しい声を受けるのも仕方がないだろうと、単純にそう思った。彼女の精神は称えるべきものがある。それは間違いない。もしかしたら彼女は誰にも迷惑などかけていないかもしれないし、至極正しいことをしたのかもしれないし、結果不慮の事件に巻き込まれた彼女達を救うことは国として当然の義務だったかもしれない。
だが、なぜ敢えてあの時期あの場所だったのか。助けを求めている人は他の場所にだってたくさんいるのではなかっただろうか、と。
意見は様々あると思う。
そしてこの映画では、最後までそのあたりがすっきりと解決するわけではない。
世間の彼女へのバッシングは度を越して異常だったことは確かだ。結果、劇中彼女の家族は崩壊する。
だがいち観客として、彼女自身に納得がいかないのも事実だ。
恐らく、そうなるように作ってあるのだろう。
じゃぁ、誰が悪いのか。わからない。
ただ、彼女のような人に対し、僕らは、日本は、もしかしたらものすごく無関心で、冷酷なのかもしれない。
それはある程度は仕方のないことなのかもしれない。
けれど、そう思うってしまうことも所詮強者の理論なのだろうし、それでいいんだよ、なんて割り切ってしまっては決していけないことなのだろう。
なんとか僕が辿り着いた答えです。
先に書いた監督のコメントからもわかるように、監督はひとりの女性を描いたに過ぎないと語っている。だから世間に上手く馴染めないひとりの女性の物語として観たら、もっと違った感想を持ったかもしれない。でも僕はやはり、あの事件と照らし合わせてこの映画を見ることしかできなかったです。
観る前は、てっきり彼女がイラクへ行くことになった背景の説明から入るのだと思っていたのに、帰国してしばらく経ってからのお話だった。冒頭からもう彼女へのバッシングが始まっている。僕は観ていて気分が悪くなった。気が滅入った。80分の映画なのに、こんなに疲れるとは思わなかった。
あの事件もまだ記憶に新しい今だからこそ、観る価値がある映画だと思う。
(2005年/日本/小林政広監督)
| 映画 ☆☆☆☆ | 01:44 | comments:4 | trackbacks:1 | TOP↑

コメント有り難うございました。
間違いなく重苦しい映画ですね。
でも観て良かった。
色んなことを考えさせられました。
この映画が無ければあの事件のことも忘れていたと思うし。
善と悪は紙一重だったのかなと思います。
| めいふぇあ | 2006/06/06 09:26 | URL |