たいようの映画の感想

映画を観て感動しても、少し時間が経てば結構忘れてしまうんです。そんな忘れんぼうな自分のための記録なんです。

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【音楽】チャットモンチーは本当に『奇跡』なのか

 ある人たちはチャットモンチーを奇跡と呼ぶ。
 普通の女の子3人が、手を繋いでひとつのステージに立つことになった巡り合いの奇跡。
 奏でられた唄たちが、多くの人の心を捉えて震わす奇跡。
 彼女たちが出会い、ここに至るまでの確立は何万分の一だろうか。それとも何億分の一か。
 だから彼女たちは「奇跡のガールズロックバンド」と呼ばれる。

 だが奇跡と呼ぶのであれば、山口隆や峯田和伸みたいな突然変異種がメジャーラインに上がってきたことのほうがよほど奇跡のように僕には思える。
 だってチャットモンチーは、どこからどう見たって、普通の女の子でしかないのだ。

 街ですれ違ったくらいではきっと彼女たちの存在に気付かないだろう。
 おそらく電車で隣の席に彼女たちがいたとしても、余程のファンでない限りは気付かないだろう。
 どこまでも普通なのだ。

  *  *  *  *  *

 見た目はもちろん、唄う言葉の多くも非常にパーソナルだ。
《キレイなとこだけ残して、録画、編集》 (プラズマ)
 親が電機メーカーにお勤めなのか? と勘ぐりたくもなる詞だ。
 こんなどうでもいいようなフレーズを唄う歌手は少なからずいるかもしれないが、ヴォーカル橋本は声を張り上げて全力で唄う。自分の過去の恋愛の痛々しさを唄う時も、家族への想いを唄う時も、彼女は全力で声を張る。

《言ってはいけないことを言ってしまうたび どんどん私ブスになった》 (Make up! Make up!)
《不器用な生き方なんて 望んじゃないよ 神様が助けてくれるって信じさせて》 (Y氏の夕方)
《たまに帰ればご馳走 もう子供じゃないのにね あぁだけどやっぱり あなたの子でよかった》 (親知らず)

 チャットモンチーはメンバー3人がそれぞれに詞を書く。24歳と25歳の彼女たちが書く詞は自身ととても距離感が近く、文芸の世界では最近の若者が書く小説を「自分から半径50mの世界」(正確ではないかもしれないが)なんていう風に揶揄したりもするが、彼女たちの詞の多くははまさにそれに当たる。

 だが不思議なことに、非常にパーソナルな感情を唄っているのに、それがとても普遍的な内容を叫んでいるように聞こえてくる。鋭利な言葉やセンシティブな言葉を扱っているわけではないのに、三人の演奏が交わり橋本の喉を通って発せられたそれらの言葉は瑞々しく、情感豊かに聴き手の耳に届く。
 ありふれた言葉で語られる感情は、スリーピースというシンプルなメロディーと共に、親しみをもって響く。
 彼女たちの歌は多くの、主に若い女性たちの心を捉えた。一見あまりにも普通な彼女たちが鮮やかな感情を唄い上げたことは、さらに厭世感とも呼べる言葉すらポップに唄いあげたことはセンセーショナルであり、過去に例を見ないことだった。

 だが、彼女たちのパーソナルな感情は、多くの女性たちのパーソナルでもあった。
 なぜなら、彼女たちは本当に「どこにでもいる普通の女の子」であったから。

「まるで私の感情を歌ってくれているような唄だ」
 きっと多くの人たちがそう感じたのだろう。

 普通の女の子のパーソナルな感情をシンプルな言葉と音で響かせ、さらにそれを堂々と歌い上げる 彼女たちの姿勢こそ、チャットモンチーがここまで短期間でセールスを伸ばし、女性バンドとして史上最短での武道館公演を成し遂げた所以だろうと思う。

 武道館公演の達成とは、彼女たちのパーソナルが、多くの人たちの心を潤す普遍性に変った瞬間でもあった。


 *  *  *  *  *


 パーソナルなことを叫びあげると言えば、真っ先に想い浮かぶのが前出した峯田率いる銀杏BOYZだ。彼らもまた、自身のパーソナルな(時にパーソナル過ぎる)感情を音に乗せ、そこに普遍性と共感を見出した観客たちによって盛り上げられてきた。
 しかし決定的に違うことがある。それは突き詰めて簡略化すれば、男女の差のように思う。
 峯田はどこまでも内に潜って詞を書く。言葉にしたため、ライブで唄い、観客にツバを吐き、裸になり、骨折しながらも唄い、それでもきっと彼の中にくぐもった感情は昇華されない。“佳代ちゃん”や“チヒロちゃん”への想いはきっとこれからも一生彼の胸でくすぶり続けるのだろう。彼らの歌で唄われる多くの言葉は、今現在進行中の、彼の思い。
 昔の恋をいつまでもダラダラと未練がましく思い出してしまう、情けない男の象徴のような人だ。

 だが橋本は、福岡は、高橋は、違う。
 福岡や高橋は自らがしたためた詞を橋本が歌うことにより、橋本はかつて自らしたためた詞を歌うことにより、それらの感情をきれいに昇華し、自分のものとし、前を向いて過去の感情を誇るように唄う。悲しみも、切なさも、やり切れなさも、苦しさも、彼女たちのもとにはもうない。
彼女たちが唄う負の感情は全て過去のものだ。

 だからこそ聴き手は、前を向いて高らかに歌い上げる彼女たちの叫びを心地よく聴くことが出来る。
ポップに彩られた彼女たちの音楽は、ツバを吐かなくともギターを叩き割らずとも、僕らの胸にすっと入り込む。
『恋愛スピリッツ』のような絶望の淵のように切ない曲でも、間奏で橋本は照れるように笑顔を振り撒ける。 
 とびっきりキュートな笑顔で。

《あの人がそばにいない あなたのそばに今いない だからあなたは私を手放せない》 (恋愛スピリッツ)
《私が神様だったら こんな世界は作らなかった 愛という名のお守りは結局からっぽだったんだ》 (世界が終わる夜に)
《口から出るのは 半分 文字にできるのは10分の1 〜 本物は高価すぎて私には似合わない 
 あなたの心が全部見えたら 私はひどく落ち込むでしょう》
(リアル)


  *  *  *  *  *


 今日、僕は武道館公演(『チャットモンチーすごい2日間in日本武道館』)を観てきた。満員である。普通の女の子3人のステージに。
 今や、チャットモンチーのファンは男性が多いようだ。音楽云々よりも橋本絵莉子の萌え〜な外見とキャラクターや、ミクロな外見からは想像もできないような演奏時のパワーのギャップに惹き付けられたファンだろうが、、ファンであることに変りはない。
 愛されるキャラクターを持っているということも、音楽で食って行く上ではとても重要なことだろう。

 歪んだギターの音、橋本の声をかき消すくらいにズンズン響いてしまうベースの音、ちょっと走りすぎている感があったドラムなど決して抜群に上手だなんて言えない演奏、演出や見せ場の少なさ、2時間足らずというワンマンとしては比較的短いライブ時間…。
 しかしそれでも不思議と「これがチャットモンチーです」という自信と喜びがひしひしと伝わる。
 考えて見れば当然のことだ。彼女たちは長いツアーも、そして今日も、たった3人でステージに立ち、自分たちの曲と多くの観客たちと対峙し続けてきたのだ。たった3人で。
 
 演奏的な拙さや音の歪さすら彼女たちの個性として、多くの人たちと変らない『等身大の女の子』であるチャットモンチーとしての魅力の一部となっているのだ。
 演奏がズレればズレるほど、彼女たちに込み上げる感情に胸が痛くなる。
 ギターの歪んだ音が会場に響くほどに、彼女たちの胸にある焦燥や、この日に辿りつくまでの苦難が迫ってくる。

 デビュー時の曲から満遍なくセットリストを組んだ武道館公演二日間は、まさに彼女たちの最初の集大成となっただろう。


  *  *  *  *  *


「おばあちゃんになってもチャットモンチーをやっていたい」とよく3人は言うが、もしかしたら、と思う。
 もしかしたら、この3人だったら、そんな夢のような話が現実になるのかもしれないと。
 世界に対するやり場のない怒りや孤独や苦しみや不安などの感情はをすっかり昇華しきってしまったように見える彼女たちだが、これから突き抜けるようにポップな路線に進んだとしても、もしくは新たに生まれる苦しみを歌に乗せるようになったとしても、もしかしたらと。
 ヨボヨボのババアになった3人が、自分の体くらいにデカイ楽器を前にジャカジャカ音を鳴らす光景。

 そんなステージが想像できてしまう彼女たちは、普通であるクセにやっぱり特別で、この3人が揃ったことはやはり奇跡だったのかもしれないと思わずにはいられない。

 手軽な販促的キャッチフレーズとしての『奇跡』なんかではなく、本当の意味での『奇跡のロックバンド』に、もしかしたらこれから彼女たちは本当に、なるのかもしれない。

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【音楽】唄う短編小説家、ミドリカワ書房

 ミドリカワ書房なるアーティストがいる。別名「J-POP界の文豪」。
 彼は主人公を据えた物語を歌詞に代え、音に乗せて謳う歌手だ。一人称で語られる彼の曲は、その場面の景色と主人公の心の中を鮮やかに描き出す。本名=緑川伸一が、まるで小説世界のような詞を歌う。だからミドリカワ"書房"なのだ。
 
 しかしながら、物語性のある詞を書くアーティストは他に多く存在する。なぜ彼だけが唯一「文豪」と呼ばれるのか。
 それは彼のほぼ全ての唄が物語であるからという理由がまず挙げられるだろう。
 だがそれだけではない。 
 ちょっと長い文章になるだろうが、書き記しておきたい。
 ミドリカワ書房のちょっと複雑なようでいて単純明快な魅力。


 *  *  *  *


 彼の特徴は、扱う物語の多彩さにある。
 シングルカットもされている『リンゴガール』は隣に住んでいる大学生への甘い想いを抱いた漫画家の話で、ポップで真っ当な名曲。
『顔2005』は整形手術をすることを決心した少女が、母親にその告白をする話。さらに続編となる『心』では、整形手術をして5年が経った少女の胸中が綴られ、結局は「こんなことならやらなければよかった」という後悔の念が描かれる。
 また『上京十年目 神にすがる』ではオレオレ詐欺で生活費を稼ぐ男の苦悩の胸中を、『それぞれに真実がある』は妻との離婚を決めた父親が娘にそのことを説明する話し言葉がそのまま唄となり、かと思えば万引きGメンが万引き犯を問い詰める様子を描いた『OH! Gメン』なんて唄もある。一体どこからネタを仕込んでくるのかと不思議に思うほどバリエーションが豊かだ。
 さらに、8ビートの軽快なリズムでタイトルそのままの疾走感溢れる前奏から始まる『ドライブ』。爽やかな前奏とは裏腹に、歌詞の出だしはこうだ。

「腰の曲がったお婆ちゃんを さっき僕らは轢き逃げした」

 耳を疑う。
 だが何度聞いても、むしろ聞けば聞くほど、お婆ちゃんを轢き逃げした青年の逃避行の姿が(それもとてつもなく無責任で無反省な逃避行の姿が)ありありと浮かんでくるのだ。

 この曲は爽やかなビートが刻まれながらこう続く。

「逃げましょうと彼女は言う 僕は小さく頷いた それからひたすら走った 僕らはどこへ行くのだろう?」
「小さな旅館で一泊することにした なんだかとっても素敵な夜だった」
「何が正しくて 何が悪いなんて 誰もそんな事 教えてくれなかった」
「次の日 三人の男が僕らの前に現れた」
「これからずっとあの娘に会えないのかな? 離れていても好きでいてくれるかな?」
「独りでいるのも結構落ち着く 割とみなさんいい人達だよ」
「こんな息子でごめんなさいママ 心配しないで 僕は元気だから」


 この違和感はなんだろう。人を轢き逃げした人間の言葉として歌われる唄であるのに、彼は反省はおろか、事件があった夜を「素敵な夜だった」と述べ、逮捕されても考えることは彼女や家族のことばかり。被害者への反省なんてものは一言一句表されない。

 だがなぜか、妙にリアルなのだ。
 反省がないからリアルだとか、そういった意味ではなく、一曲を通して聴き終えたあと、獄中でのんびりと暮らす「僕」の姿がはっきりと目に浮かぶのだ。そしてこんな歌詞であるにも関わらず、(不謹慎この上ないことを承知で言えば)とても爽やかで素敵で切ない曲に聞こえてくるのだ。
 

  *  *  *  *


 ミドリカワ書房はこのように、他の多くのアーティストが扱わないような題材を進んで取り上げる。目立ちたがり屋とか、売れるために奇をてらっただけだとか言ってしまえばそれまでだし、実際その通りでもあるのだろうが、彼には決定的に他のアーティストたちと異なる部分がある。

 多くの作詞者たちは「自分が伝えたいある事象」もしくは「ある感情」を伝えるための手段として物語を用いる。物語は感情移入を容易にし、伝えたいことがらをはっきりと言葉にせずともスムーズに伝えられる装置である。空気感や感情の機微などは直接言葉に表すよりも物語として語ったほうがより正確に届く場合もある。

 だがミドリカワにとっての物語は、装置ではない。物語そのものが主題である。
 唄を伝えるための物語ではなく、物語を伝えるための唄に限りなく近いのだ。

 さらに彼には限られた分量の中で、物語を操り、聴き手を引き込む見事なまでの心理描写と構成力をも持ち合わせている。 
 そのよい例が『恍惚の人』だ。

 ミドリカワのほとんどの曲がそうだが、この曲もタイトルだけでは何をテーマとしているのかはさっぱり分からない。
 1番の歌詞を聴き終えたところで分かるのは、年を取ったお爺さんの一人称であるということと、彼は息子の家族と共に暮らしているということ。

 アコギの音が響く切ないメロディーに乗り2番の歌詞が始まると、徐々に物語=彼が抱えている「ある問題」が姿を表す。

 終盤に指しかかるにつれて、聴き手を哀しさと寂しさとやるせなさのどん底に突き落とすかのように、「ある問題」ははっきりと表れる。

 最後まで「ある問題」が直接的に言葉にされることはないまま、物語から鮮やかに立ち登る切なさだけを残して曲は終る。まるで短編小説の読後感のように。


  *  *  *  *


 聴き手の心を強烈に掴むようなフレーズがあるわけではなく、ぐっさりと一突きするような鋭利な言葉を扱うわけでもなく、それでもなお、ミドリカワの言葉は不思議なほどに心に響く。
 これがミドリカワが、さらには物語が持つ不思議な力だ。

「奇跡の名曲」とか「衝撃的新星の誕生」といった褒め言葉が日常会話のように繰り出されるようになった音楽業界だが、ある雑誌がミドリカワの紹介に使ったコピーはすんなりと納得することができてしまった。
 それは「唯一無二」。

 5分〜6分という限られた時間で魅せる濃厚でドラマティックなストーリーテリング。この快感は、他のどんな曲を聴いても味わうことができない快感ではないだろうか。

 なぜこんな妙なことばかりを唄うのか、という点で物議を醸すことも多いミドリカワだが、そんな動機や理由や詮索や常識なんかを一度忘れて、ただ目を瞑って曲を聴いて見れば、すぐに分かるだろう。ミドリカワ書房がただの「物珍しい存在」というだけで音楽業界を生きてきた人ではないということが。


 前述した『恍惚の人』しかり、『それぞれに真実がある』しかり、扱う内容が先行して取り上げられがちだが、これらは単純明快にキャッチーなメロディーに載せられたポップな名曲である。ミドリカワの実在する弟を描いたと言われている『馬鹿兄弟』なんて、何度聞いても身が震える感動を呼ぶ。

 単純にいい話を書ける。小説家にとっても、これが一番難しいことではないだろうか。悲しみに満たされた物語を書くことはそれほどまでに難しいことではない。幸福な物語が書けるということこそ、物書きにとっての一番の武器となる。

 その武器を持っているからこそミドリカワは唯一無二で在り続け、「唄う短編小説家」で在り続けられるのだろう。

 そして、だからこそ名曲と謳われる『それぞれに真実がある』や『リンゴガール』などでわざわざ続編を作り(『続・それぞれに真実がある』、『昔の彼は彼ならず』)聴き手をとんでもなく裏切って厭な気分にさせるような遊び心を忘れずにいられるのだろう。


「ママの言ってる事は 全部 嘘じゃないけど
 パパはお前のことが大好きなんだよ
 笑っちゃうかい? だけどね これがパパの真実だから

 何で泣くんだよ? 初めてお前に手をあげたときでも泣かなかったじゃん
 パパみたいなのと付き合っちゃダメだよ
 お前は綺麗だから心配だなぁ

 何を言ったって無駄かもしれないけど
 お前には俺の血が流れてんだ

 ママと別れたって俺たちは親子だから
 一生俺は お前のパパだからな」

(『それぞれに真実がある』より)



  *  *  *  *


 本当はこれで終わりにしたかったのだが、やはりミドリカワを語る上で触れておかなければならない唄がある。
 セカンドアルバム「みんなの唄+α」に収録予定だった『母さん』である。

 数々のテーマで唄を作ってきたミドリカワだったが、この曲だけは所属レーベルが断じて発表を許さず、歌詞を変更するかアルバムへの収録そのものを取りやめるかという選択を彼は迫られた。
 彼はそのどちらも選ばず、インスゥメンタルでの収録に踏み切った。

 テーマは「死刑」である。
 内容は、刑の執行を間近に控えた死刑囚が母親に宛てた、最初で最後の手紙。

 そもそも過去に扱った物と比べても格段に難しい内容であるし、歌詞の内容がまた(常識的に考えてみたら)とんでもないものだ。
 だからレーベルが発売を拒否したことは不思議なことではない。だがミドリカワがそう易々と会社の決定に従うことができなかったことも頷ける。彼はもうずっとこのやり方で唄ってきたのだから。これを許してしまうことは彼の創作の根源に、さらには歌手生命に関わってくることになる。

 一度はインストとしての収録に妥協したミドリカワだったが、昨年2月、この問題の「母さん」を歌詞入りで収録されたアルバムがリリースされた。しかし、インディーズの自主レーベルから。

 このミドリカワの姿勢に語り部(歌い手)としての、表現者としての意地と責任感を感じずにはいられない。
 
 そして曲を聴いてみればやはり、今までの突飛なテーマを扱ってきた曲たちと同様、単純に素晴らしい曲なのだ。内容が良いとか悪いとか、間違っているとか正しいとかは分からない(というか普通の頭で考えれば完全に良くない)が、それでもやはり良い曲なのだ。涙なしには聴くことができない名曲なのだ。

 これだから不思議だ。
 これだからミドリカワ書房は唯一無二の「文豪」なのだ。


  

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【音楽】音楽の魅力とそれにより日々失ってきたかもしれないもの

 僕は音楽があまり好きではなかった。
 別に嫌いなわけではない。物心ついた頃から音楽はそばにあったし、満ち溢れていたし、好きとか嫌いという区別なしに、音楽はどこからともなく耳に入って来ていた。多くの人たちがそうであるように。
 ところが中学や高校あたりから、妙に音楽に詳しい奴というのが登場し始める。学校に来る時はいつも巨大なヘッドフォンを装着し、手にはディスクユニオンのビニール袋。背中にはギター。財布の中にはポイントが溜まりきっているHMVのカード。そんな奴が学生時代はクラスにひとりはいた。多分。
 僕はよく分からなかった。そこまで音楽に、音楽のみに傾倒する人の気持ちがよく分からなかった。それに「音楽をいつも聴いている」「音楽に詳しい」ということがまるでひとつの個性であるかのように(個性であることは間違いないのかもしれないけれど)、ひとつのファッションや知性を示すアイテムであるかのように、己のアイデンティティを必死で守るかのように、頑なに音楽に精力をつぎ込んでいるように見えた。
 音楽そのものへの傾倒ではなく、音楽を聴く自分、音楽に詳しい自分への傾倒と陶酔。
 僕にはそんな風に思えた。

 音楽をかけるということは音楽を聴くということであり、音楽を聴くということは読書をすることも思案することも出来ない状態である。耳から入る歌声は言葉として頭に響いて他の思考を容赦なく寸断させる。 
 決して音楽が嫌いなわけではないし、詳しくないわけでもない(なにせ音楽誌は昔から大好きなのである)僕があまり音楽にのめりこむことがなかった理由はこれに尽きる。学生時代から今まで、いくつかの路線やジャンルの嗜好を経て僕が僕が音楽に下した結論はこれだった。


 ☆  ☆  ☆


 ところが、である。
 僕は昨年、アイポッド的なものを買った。電車の中では聴かないが、駅まで歩いている時はいつでも音楽を聴くようになった。ただぼんやりと歩いているその数十分の間だけでも、聴いていたいと思うようなミュージシャンに出会ってしまった。
 これは我ながら驚くべき変化だった。
 そしてロッキンオンのバックナンバーを10冊ほどまとめて買った。
 (この辺の動機はまたいつかガリガリと書こうと思います)

 その10冊をごっそりと読み終えた頃、さすがに少しそのミュージシャンにも飽きてきた。家にあるCDはどれも聞き飽きてしまったものばかりだ。
 今までの僕であれば、ここでまた音楽熱は下降線を辿り、再び音楽過疎が進んだはずだ。だが僕の手にはアイポッドがあった。今やクリックすれば音楽が安価で買えてしまう時代なのであった。なんていう便利さ! しかもロッキンオンを読み漁った直後で、買いに出かけるには億劫だけどちょっと気になるアーティストはゴロリゴロリと存在するというタイミング。
 クリックの連続である。


 ☆  ☆  ☆


 音楽はさまざまな力があると思うし、実際それは多くのアーティストによって充分に示されてきたことだ。
 だが同時に、音楽だけに力があるわけではないと、僕はいつも強く思ってきた。
 (別に誰も「音楽だけに力があるんだ!」なんて言ってないけれど…)
 映画にだって小説にだって絵画にだって彫刻にだって芝居にだって壮絶な力があるのだ。きっと。間違いなく。
 しかし、である。
 同時に数万の人の手を振り上げさせ、跳ねさせ、声を張り上げさせるものが他にあるだろうか。それも数十分や数分で、である。
 ない。
 人が本気で精力を傾け、これでなくてはならない、今これを創り上げなければならないという切迫感に駆られ創り上げられたものというのはどんなものであっても、人を感動させ、人の心を揺り動かせ、よもや世界を変えるような体験を人にもたらす。
 だけれど、これほどに瞬発力を伴い人を動かすものは、他に類を見ないのである。
 (そしてこれほどに高速度で消費されるものも他に類を見ないのである。)
 ああ、音楽のなんと偉大なことか。
 23歳にしてようやく、音楽というものの奥深さやパワーや切なさや哀しさを理解し始めた僕です。


 ☆  ☆  ☆ 


 音楽が持つ壮大にして壮絶なパワーなんてことは、もううんざりするほど昔から語られてきたことなのだと思う。
 だが、僕はこうも思う。
 音楽とはある意味では目隠しと同様ではないのだろうかと。
 
 電車の中でギュウギュウに詰め込まれる苦痛を音楽は多少なりとも解消してくれるかもしれないけれど、電車のアナウンスすら書き消してしまう。もしかしたら隣に憧れの異性がいて、「ずっと好きだったんだ」と耳元で囁かれたとしても、聞くことが出来ない。
 
 僕は今でも電車の中では音楽は聞かない。だけど、歩いている時はほぼイヤホンをしているようになった。
 好きな音楽を聴くということはまさに幸福な時間だ。さらにどんな場所でも聞くことが出来るということも、音楽好きには幸福以外のなにものでもない。

 しかし、しかし。
 これは僕自身の話だが、不思議なもので、いつでも音楽を聴ける状況に慣れてしまうと、今度は音楽がないと何か物足りなくなってくるのである。
 だったら常に聴いてればいいとも言えるが、そうはいかない。大問題だ。少なくとも僕にとってはとんでもない大問題だ。

 常に音楽を聴くということは、常に誰かの言葉を聴いている状態だと僕は思う(もちろん音楽の聴き方は人それぞれなので一概には言えないけれど)。
 人の言葉に耳を傾け続けるということは同時に、自分の言葉を殺している状態だ。話を辞めない相手に話しかけることは出来ない。音楽を聴いている時間、感情は生まれても、自分の言葉は生まれない。
 
 と、僕は思ってしまうのだ。

 高校の頃の、巨大なヘッドフォンをしてディスクユニオンの袋をいつも持っていたあの人は今、自分の言葉を話せているんだろうかと、自分の思いを胸に秘めているのだろうかと、ふと考える時がある。


 ☆  ☆  ☆
 
 
 僕は、大好きな音楽を聴きながら駅までの道程を軽快に歩く。
 ただぼんやりと歩いていた時間が、音楽により最高に楽しい時間へと変わる。 

 だけど、音楽よりも素敵ななにか、例えばどこかで猫が泣いていたり、葉がさざめく音がとても綺麗だったり、大好きなあの子がずっと遠くから僕に向かって助けを求めていたり…、そんな大切な何かを、いつでも聞ける音楽よりももっと耳を澄まさなければならない何かを、聞き逃しているのではないか。聞き逃してしまっているのではないか。
 そんな想いに、つい捉われてしまう時がある。

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