たいようの映画の感想

映画を観て感動しても、少し時間が経てば結構忘れてしまうんです。そんな忘れんぼうな自分のための記録なんです。

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【雑誌】『真夜中』よ生き残れ

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 リトルモアより4月22日に創刊された季刊誌『真夜中』。
 渋谷のスクランブル交差点にある大盛堂書店にでかでかとした販促ポスターが張られていて、抽象的なキャッチや今のエディトリアルの流れで考えればかなり挑戦的なデザインなどが目を引いた。

《言葉は真夜中の星、写真は光、
 絵はともしび、デザインは夢》


 これがメインのキャッチというか、コンセプト的なものらしい。「表現」のようなものを多少かじった人間やそれに憧れる人間からすれば、まさに希望の灯火を与えられるような、もしくは夢へ向かう光を与えてくれる星のようなキャッチだろう。

 創刊号にある、「読者のみなさまへ」と題された文章には、こうある。

《「真夜中」のテーマは、文芸、アート、デザインと、ジャンルにとらわれず、人間の想像力、表現の素晴らしさと自由、現実に抗う力、そして自分と自分をとりまく世界を変えようとする意志です。(中略)真夜中のページを、ひとりひとりの手のひらと指先で、灯してください。》

 すごいものが売られた、と僕はこの文章を読んだ時に思った。こんなにストレートに「表現」という言葉を雑誌のメインコンセプトに持ってきた雑誌を僕は知らなかったし、何度も読み返せば読み返すほどに、これが「誰かの表現を読みたい人」へ向けた本ではなく、「表現を試みている誰か」へ向けた本であるような気がしてくる。

 今は表現の時代だと僕は思っている。時代というか、僕と同世代や僕よりも下の年代、若者と呼ばれる世代の人たちはみな、表現に飢えている。しかしそれは自分の中の価値観を根底から揺るがしてくれるような、もしくはこの世界の価値観をひっくり返すような“誰かが作った”表現ではなく、“自分の”表現方法を、である。言うなれば現状の日本人は誰しもが表現者になれるし、若者の多くは既に何らかの方法で自らの考えや作品や言葉を発表している表現者なのである。

 だがツールを持ち、自分だけの表現を昇華しているだけでは《自分と自分を取り巻く世界》は変わらない。自分なりの何かを発信しているにも関わらず、テレビや雑誌で取り上げられる「表現者」の類とは決定的に隔てられている自分という存在があり、それと向き合わなくてはいけないのだ。これは生まれながらネットという表現方法を持っている世代に向けられた宿命かもしれない。
 《変えようとする意思》を持たぬままにその手段(手段に近いと思えるもの)を既に持ってしまっている(持っていると思えてしまう)からこそ、本当の「表現」を持っている人に対する嫉妬や憎悪や興味や関心がより高まるのだと僕は思っている。

『真夜中』の購買ターゲットがどこなのかは分からないが、この流れからすれば僕はこの本は間違いなく売れると思っているし、こういった風潮を敏感に感じ取った本なのではないかとも考えている。


  *  *  *  *  *


 作りはA4版の平綴で、巻頭のカラーページは海外小説に対する考察文なのだが、そこに大胆なフォトディレクションが挟まる。贅沢なつくりだ。

 2色ページを間に挟み、カラーページでは写真を大きく使用し目を止める。ぼんやりした表情でうつむく佐内正史が印象的だ。

 だがパラパラと先に進むと、そのほとんどは文字である。余裕を持たせた文字組みや、途中でまたカラーの写真ページを持ってくるなど変化をつけているが、やはりざっと見た感じの印象は、「文字」である。


 さて、この本はすでに発売から約一ヵ月が経つわけだが、今のところその反響というのは聞いていない。まぁ大盛堂書店のプッシュの仕方や挑戦的なディレクションの仕方を見れば、なんとなく売れたんだろうな、ということは予想に堅くない。「表現」という言葉に、今の若い世代は敏感であり、その手のお洒落な雑誌(あくまでもお洒落であること、もしくは名前が有名であること)に飛びつく傾向にある。

 だが、バカ売れしたとは思えないし、今後もバカ売れするかどうかは怪しいところだ。

 リトルモアは、有名無名に関わらず、表現に携わるものを扱っていくと宣言しているが、この創刊号のコンテンツを見たときに、これといって目玉となる書き手が存在しない。書き手の多くはリトルモア主催の文芸賞などで賞を取ってデビューした若手ばかりだ。松尾スズキや古川日出夫や市川実和子や北村道子や保坂和志らも名を連ねるが、ちょっと地味じゃないか?

 今は文芸誌がどうしようもなく売れない時代である。というか本自体がなかなか売れない時代になって久しい。その中で、文主体のこの本を創刊するというのはかなりの冒険だったことだろう。
 読んでみれば、内容は間違いなく面白い。大竹昭子の佐内正史に関するテキストなんて見事の一言に尽きる。

 若者、もしくは今の時代の流れを実に上手く汲み取ってまとめた本だと僕は思ったし、この冒険をするにあたってのバランスが季刊という選択、1200円という高価な値段だったのだろうというのは分かる。

 ある新聞は『真夜中』創刊にあたり、《全く新しい文芸誌の誕生》というような内容の批評を掲載していたが、売れ続けることが出来ずにすぐに衰退してしまっては何の意味も無い。

 新しいもの好きが手に取る創刊号が売れても、その後が伸び悩んだ雑誌は腐るほどある。5年経ったときに『真夜中』が本当に《全く新しい文芸誌》となり文学界に、さらには出版会に凛と佇む柱になっていてほしいものだと、創刊号を読み終えて僕は思った。

季刊 真夜中 No.1 2008 Early Summer季刊 真夜中 No.1 2008 Early Summer
(2008/04/22)
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【書評】山崎ナオコーラ『論理と感性は相反しない』(講談社)

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 コーラが好きだからという理由の安易なペンネームを持つ山崎ナオコーラという作家が『人のセックスを笑うな』という強烈なタイトルの作品でデビューを飾ってから約3年。短いセンテンスと改行の多さや情緒的な描写は最近の若者に好まれる、もしくは最近の若者が書きがちな恋愛小説の典型のような文体であったが、『人のセックスを笑うな』には他にない独特の間と情感に溢れ、芥川賞の候補にもなり、映画化(→映画版『人のセックスを笑うな』)もされてヒットを飛ばしもした。しかし華々しいデビューから2年の間が空き、ようやく2作目の『浮世でランチ』(河出書房新社)、続くエッセイ集『指先からソーダ』(朝日新聞社)、再び芥川賞の候補になった『カツラ美容室別室』(河出書房新社)と続けて刊行された。新人文学賞を受賞した作家はその1年以内、つまり話題性が消える前に受賞後第1作を刊行するのが通常だ。だが山崎ナオコーラはそれをしなかった。
 なぜか?
 それはこの新作を読めば、なんとなく分かる。


 *  *  *  *  *  *


 この短編集は、異様だ。
 まず、それぞれの話に一貫性がまるでない。恋愛の話、小説家の女が人間関係に悩む話、時代モノ、言葉で遊ぶだけの非物語、かと思えばいくつかの話の登場人物が薄らとリンクしていたり、突如として外国人が登場したりする。さらに『プライベート』など数編に登場する《矢野マユミズ》は、あからさまなほどに山崎ナオコーラ自身を描いているように思える。小説家にとって「自分のことを小説にして書くこと」とはもっとも格好悪いことであり、もっとやってはいけないことのひとつであるはずなのに。
 一貫性を放棄し、今までの短編集の通例や慣習、ひいては小説のそれをあざ笑うように無視しているように思える。

 小説の中に登場する《矢野マユミズ》が、山崎ナオコーラ自身の分身なのか、それとも自身の分身のように描かれた全く創作の人物なのかは分からないが、もしも後者であれば彼女は相当に巧みに読者を操ることに成功しているし、前者なのだとしたら相当の覚悟でこの本を書いたことだろう。
 《矢野マユミズ》は、こう語る。

《私は「出版界」なんてものの中で仕事してんじゃねぇ、ばか。
 文章は「出版界」で生まれるんじゃない、現場で生まれるんじゃ》


 この一文だけを抜粋すると、彼女がいわゆる文壇というものにかなり攻撃的な思想を持っているのかと思うかもしれないが、決して攻撃的な言葉だけではない。この作品の中で《矢野マユミズ》は、小説を書くという仕事の苦悩や恋愛との両立や編集者や友人への感謝の気持ちを、心の中で繰り返し呟く。


  *  *  *  *  *  *


 彼女は普通のOLから突如としてデビューし、さらにデビュー作は映画化までされ、彼女の生活はあっという間に激変しただろう。そして自分と自分を取り巻く環境の変化にとまどい、様々な疑問や鬱屈を溜め込んできたのだろう。これは小説家に限らず世に出るものを作る人であれば多かれ少なかれ経験することで、それぞれにそれぞれの方法で昇華し、昇華しきれなかった人はその感情に縛られて次のステップへと進むことはできない。
 僕は『指先からソーダ』と『カツラ美容室別室』は未読なのでそれについては触れられないが、『浮世でランチ』は全く持って面白くなかった。芥川賞の候補になるくらいの書き手なのだから、当然書き方は上手いし、語り口も饒舌だ。だが面白くない。『人のセックスを笑うな』で感じたような麗しい情感をまるで感じられなかったし、読んでから1年以上が経った今、どんな内容だったかももはやうろ覚えだ。山崎ナオコーラはどこに行くのだろうか、読了当時そう思ったことはよく覚えている。
 今思えば、彼女も読者も『人のセックスを笑うな』のイメージに縛られていたのかもしれない。

 そしてその大きなイメージの壁を破るための作品が、さらに多くの重い感情を昇華するために彼女がとった方法が、この本だったのではないだろうか。

 一見安易で直接すぎる昇華方法に思えるが、この作品はひと時も飽きることなく読める。立派なエンターテインメントなのだ。

《プライベートの概念をなくしていこう。自分を公のものにしていく。
 もう、小説家としての自分を、本来の自分から切り離すことはできない。》


 これも《矢野マユミズ》の言葉だが、山崎ナオコーラが即ち《矢野マユミズ》であろうとなかろうと、これは彼女から世間への、そして自分への宣言なのだろう。
 
 帯に『これが私の代表作です』とでかでかと書くほどに、デビュー作以外が話題に上ることがあまりなかった彼女の満を持しての書きおろし作品。その言葉通りに、不思議な力強さにぐいぐいと引き込まれて読まされて行くような感覚や、メランコリックな匂いなど、様々な山崎ナオコーラを読むこともできる。
 読み終えたあと、これから日本の小説の概念をひっくり返し、さらに牽引していくような存在に彼女はなるのではないかと思った、爽快な一冊。


(2008年/講談社) 

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【漫画評】浅野いにおの中に潜むプンプン的感情

ああ
 
 浅野いにおは語りかける。

 少しでいいから希望を持とうよ、と。
 こんな世の中も笑い飛ばしてしまおうよ、と。

 シリアスな感情をシリアスに捉えるのにはもう疲れてしまった。
 受け入れてしまおうよ。
 そして少しでもいいから前を向こう。

 とてもとても小さな声で、彼は語りかける。

《『ああ、なんて素晴らしい世界だ』  嘘でもいいからそう思ってみれば、 昨日よりちょっとは楽しい気分。かもですよね。》(『素晴らしい世界』より)


  *  *  *  *  *


 書店で浅野いにおの特設コーナーが作られるくらいに売れていると知ったのはつい最近のことだ。
 優柔不断でパッとしない登場人物たち、文字量の少なさ、叙情的な描写。
 この手の漫画が売れてきたのがいつ頃からなのかを僕は正確には知らないが、僕の中ではきっかけは矢沢あいだったんじゃないかと思う。

 文字量の少なさや絵の綺麗さ=読みやすさ、単純さがウける時代になった、などとシンプルに言うこともできるかもしれないが、要因はきっとそれだけではない。
 例えば岡崎京子がいまひとつメジャーではないながら絶大なる人気を保ち続けてきたことにも通じるかもしれない。南Q太や魚喃キリコややまだないとなどもそうだ。

 先日、ゲイでありコラムニストであるマツコ・デラックスさんにお会いしたのだが、彼女は「汚い物にフタをしたものが売れる時代なのよ」と言っていた。

 人間の汚い感情がまだ露にされなかった時代に人間の業や欲深さをセンセーショナルに描いた、永井豪の『デビルマン』が一世を風靡してから数十年、人は人が持つ汚い感情を嫌というほど目の当たりにし、自分の中に潜むそれらと嫌というほど対峙してきた。

 そしてロマンチシズムに浸り、汚いものにふたをした幻想的作品が売れるようになった。

 その流れの中で、前出した岡崎京子や南Q太は柔らかいタッチながら、オンナの中にある汚さや意地悪さを惜しげもなく抽出し、共感を得た。彼女たちの作品に共通するのは、オンナとしてのやり切れない哀しさが含まれていることだ。

 そこに読者はリアリティを見たのだろう。そして、哀しみを哀しみとして吐き出すだけでなくそれらの感情を肯定しているかのような作者の潔さに、読者は惹かれたのだろう。


  *  *  *  *  *


 少し話がそれてしまったが、浅野いにおについて特筆すべきは、彼が男性であるということだ。
 かつて漫画といえば勧善懲悪のヒーローものがスタンダードで、週間少年ジャンプがバカ売れした時は「努力」「友情」「勝利」の3大テーマが漫画には絶対不可欠だと思われていた。よって若き漫画家はこぞってそこを目指した。

 しかし浅野いにおは、若干22歳の時に『素晴らしい世界』で連載デビューを果たす。
 そこにはヒーローも悪も存在しない。
 そして恋愛模様も垣間見えない。
 SF的要素も存在しない。

 あるのは普通の街の普通の日常、そこで営まれる人間の生活の一見幸福そうに見える中に潜む孤独や悲しみや可笑しさ。
 そしてそれらを肯定して包みこむような暖かさだ。
『ひかりのまち』においても、恋愛を用いた『ソラニン』でも、この主題は変らない。
 
《とういか、他人の死も この小奇麗な住宅街も、 未来の自分の姿さ
えも 僕には全然現実味がなくて 時折感じるこうした孤独感のほうが ずっとずっとリアルだなぁ。》
(『ひかりのまち』より)

《平坦で退屈で曖昧な日常を生きているわたし達からは、悩むために悩んでこねくりまわした贋物しか産まれない》(『ソラニン』より)

 だがそれまで作風とかなり乖離した『虹ヶ原ホログラフ』で、彼の心の深淵が垣間見える。
 無慈悲であり、無感情で、無機質な違和感。あの井戸の底のように、暗く淀んだ感情の吹き溜まりが顔を覗かせる。
 彼はなにかに絶望している。

 たかが20歳そこそこで、と年配の人は口を揃えるだろう。だが彼は、僕らはみな、絶望しているのだ。
 社会に? 大人に? それとも自分に? それは分からない。得体の知れない何かに、だ。

 だが浅野いにおは上を向く。受け入れて笑い飛ばそうとする。
「どうにもならないさ」と諦めることをポジティブに受け入れる彼の気持ちと、それでも大手を振って「希望だぜ!!」なんて叫ぶことへの気恥ずかしさが、ヒヨコだかなんだかよくわからない生き物を擬人化して主人公に据えた新作『おやすみプンプン』で分かりやすくポップに表現されている。

 時々現れてプンプンに突っ込みを入れる八嶋智人風の神様は、自分に浸りきれない自分へ向けた自分からの声。
 あぁやって人は「もうひとりの自分」とちょっとずる重なりあって大人になるのかもしれない。

 誰かを好きになることの苦しさ、なんてイマサラすぎるテーマを、プンプンという謎の生物を通して滑稽に描く彼はもはやただの若手漫画家ではなく、漫画を用いた巧みな表現者だ。


  *  *  *  *  *


 プンプンの可笑しさと格好悪さと悲しさは浅野いにおのそれであり、同時にぼくらのそれでもある。

 本当は格好よく生きたいけれど、でも格好付けて逆に格好悪くなるのが嫌でうまく振舞えない僕たち。
 孤独じゃないハズなのに拭い去れない孤独感と、肥大化する焦燥感と、あの日になりたかった僕になれないままの僕。

 そんなダメな自分を、笑っちゃえよと浅野いにおは言う。
 一回思い切って泣いて、そしたら明日から笑い飛ばせるようになるさ、と。

 浅野いにおはそんな風に、僕たちに語りかけ、同時に自分にも語りかけている。
 彼の漫画を読んでいると、そんな気がしてならない。

《それでもプンプンはやっぱり、愛子ちゃんが好きでした。でもいくら泣いても プンプンは今 地球上でひとりぼっちでした。 》(『おやすみプンプン』より)

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