たいようの映画の感想

映画を観て感動しても、少し時間が経てば結構忘れてしまうんです。そんな忘れんぼうな自分のための記録なんです。

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ガチ☆ボーイ (アミューズCQN)

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 予告だけを見た時は、佐藤隆太のプロモーション映画だと思っていた。
 チャットモンチーがどうしようもない映画とタイアップしちゃったなぁとも思った。
 が、しかし……。

 映画の前半は、もう文句ナシにつまらない。
 どっからどう見ても大したことない青春コメディだ。
 が、しかし……。

 この映画はとんでもない感動を生むとんでもない青春映画だった。
 青春映画なんて言ってしまってよいのかどうかも分からない。
 自分の障害と向き合い、戦う、ある青年のヒューマンドラマだ。

 
  *  *  *  *  *


 この映画はプロレスを通じて主人公の五十嵐という障害を持つ青年の成長を描くのだが、前半部では肝心の五十嵐が持つ障害については一切触れられない。
 それゆえ、前半部では締りの悪い青春コメディの匂いがぷんぷんと漂う。いや、青春コメディの匂いしかしない。 

 中盤になり、初めて五十嵐が持っていた障害を観客は知ることになる。今時は映画の内容をよく知らずに観に行く人は少ないので、「あぁようやく来たか」と思った人が大半だろうが、予備知識を持たずに観ていた人にとってはものすごい驚きだっただろう。

 五十嵐の障害が明らかになったことにより、今までの五十嵐の毎日が、あんなに満面の笑みで練習に打ち込んでいた彼の日常が、いかに苦難に満ちていたのかを観客は知る。

 中盤に五十嵐の障害を明かすということが、この映画にとっての大きなポイントとなる。
 彼が障害を持っているなどとは思わずに接してきた人間が、彼の障害を知り、今までの彼の並々ならぬ努力を知る。 
 これは観客の視線であると同時に、同好会の仲間たちと同じ視線でもある。

 この「仲間たちの視線」という仕組みが巧みに働き、観客はたやすく五十嵐に、そして同好会の仲間たちに感情移入することができる。
 
 彼の障害を知った仲間たちは、彼を支え、共に励み、大一番に向かう。
 そしてラストシーンとなる最後の試合では、これまで気づかぬうちに点々と撒かれていた伏線が綺麗に浮き上がってくる。これはもう本当に見事だ。

 プロレスという激しいスポーツを見せるためのカメラワークやテンポなども上手く、障害をもった五十嵐という人間のリアリティーが徹底して描かれる。
 若干27歳の監督が撮った作品とは思えないほどに、構成がすばらしく優れていた。人の感情の動かし方や震わせ方を熟知しているような構成だった。


  *  *  *  *  *


 忘れるということがどれだけ恐ろしいことか。
 過去に「明日の記憶」を観た時にも思ったことだが、記憶を失うということは死に限りなく近い。
 記憶とは自らが生きてきたいちばん確実な証だ。
 今日見た美しい景色も、今日感じた最高の喜びも、明日にはもう失ってしまっていることがわかっているとしたら、それ以上の悲しみや切なさはないのではないだろうか。
 今日感じた全てのものが明日には無に帰してしまうのならば、今日は一体何のためにあるのだろうか。 

 日常で奇跡はそうそう起こらない。実は奇跡なんて存在しないと言ってもいいかもしれない。
 それほど日常とは冷酷であり、ただ無常に、無慈悲に過ぎ去っていくだけだ。

 これは障害を持った人間が、努力により障害を克服する奇跡を演じる映画ではない。
 自らの人生に絶望し尽くした男が、這いつくばるような努力の末に、ほんの少しだけ障害を凌駕した瞬間を描いたものだ。

 そう、ほんの少しだけ。
 この日の感動すら、数時間後には彼の記憶から消滅してしまう。
 そして彼の苦悩はこれからも続くのだろう。



「お前の記憶には残らなくても、俺の記憶には残るよ」
 五十嵐の先輩がそう言う。五十嵐を勇気付け、観客に感動を誘う台詞だが、結局はなんの解決にもならない。だが何の解決にならなくても、これからも五十嵐は生き続けて忘れ続けるのだ。

 いかにも駄目映画っぽいタイトルに騙されてはいけない。
 タイトルと雰囲気だけで判断してスルーするにはもったいなすぎる映画だ。
 このカタルシスと感動とちょっとの笑いは、ここ数年の中で最も映画らしい映画だったように思う。
「邦画ブームだ」とか「邦画バブル」とか「いやいや本当は邦画は大不況だ」とかいろいろ言われる昨今だが、このようなまっとうに楽しめるエンタテインメントな邦画がある限り、やっぱり映画は最高だと声を大にして言い続けられる気がする。


(2007年/日本/小泉徳宏監督)

| 映画 ☆☆☆☆☆ | 20:30 | comments:0 | trackbacks:2 | TOP↑

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人のセックスを笑うな

movie[1]


 男ってどんな女に想い焦がれるの?
 そう思案する女性はさぞ多いことだろう。だがこれを見れば分かる。
 �聡明さを滲ませる物静かな佇まい、しかし無邪気に男の体を吸う色気の塊のような女。
 �強がって勇んでいても本当は怖がりで、相手を想うばかりで自分を抑えてしまう弱い女。

 この映画の監督である井口奈乙は何者だろうか。
 男のツボを全て心得たようなこの演出はデビュー2作目の手法とはまるで思えないが、どこからか抽出されてくる瑞々しい空気感はベテランや中堅監督の感覚ともかけ離れている。


「なんてことはない話だけど、なぜか胸を掴む物語」
 原作を読んだのは数年前だからはっきりとは覚えていないが、こんな風に感じていたと思う。
 文章量も少なく、それ故情報量も少ないにも関わらず、なぜかその場面での艶っぽく乾いた匂いやひりひりするような切なさが溢れ出てくるような本だった。
 それが文体が成した技だったのか、物語の展開自体が緻密だったのか、それとももっと別のなにかがしかけられていたのか、それはもう分からないし覚えていない。 

 だが映画を観ている時から、あの原作そのままの世界をどっぷりと味わう感覚を覚えた。

 定点、長回し、引き画の多用。
 これらの要素が必然的に抽出する静けさと切なさが、物語と溶け込んで観るものの心に沁みる雰囲気を作り出したことは間違いない。

 
 *  *  *  *  *


 しかしながら、これは観た人ならば全ての人が声を揃えるであろうが、役者の魅力勝ちだ。
 永作博美の静かな佇まいと時折見せる子供のような笑顔は、過去に観たどんな女性よりも艶っぽく、色気に満ちていた。「好きだ、」もそうだったが、静かな色気と魅力ある女性を演じるのが彼女は抜群にうまい。もう憎いほどに魅力的だ。

 さらに、片思いの彼を取られた女を演じる蒼井優もまた、抜群にいい。役どころからしてぴったりではあったが、吹き出した感情をみるめにぶつける観覧者のシーンや、ぶつける場もなくただああするしかなかったホテルでのシーン、そして全編で見せる憂いの充満したあの瞳。間違いなく彼女の魅力と実力が最大限に発揮された作品だろう(「フラガール」も「クワイエットルーム〜」も観てないけど)。

 どちらもまさに絵に描いたように、多くの男性たちが求める理想の女性像であったように思う。
【 抱きたい=愛されたい=色っぽいえり、そばにいたい=愛したい=可愛いえんちゃん 】
 これはあくまで僕個人の意見だが、こんな風に感じた男性は多いはず。

 男ってのはいつだって、エロそうで色々教えてくれそうな年上の綺麗な女性と、そばにいて愛らしくて楽しく一緒にいられそうな可愛い女の子の間で揺れるものだと思うけれど、この映画にはこのどちらもが凛として在るのだから、男としちゃぁ逃げ場がない。完敗である。

 人物が米粒程度にしか見えないほどの引き画や、無駄に長いように思えたワンカットすらも、彼女たちがフレームにいることだけで全く退屈を感じさせない。これも二人の魅力、もしくは男が求める女を知る監督の、あざとい意図だろう。


 *  *  *  *  *


 恋をして、溺れて、周りを見失って気がついて、また恋をして。
 そうやって男も女も年を取る。
 死ぬほど切なくて死ぬほど孤独でどうしようもないほど切なくて。
 そんな苦しみの部分はあまり描かれないけれど、みるめも、えんちゃんも、堂本も、もしかしたらユリも、そんな辛い夜を超えて年を取った。

「だって、触りたかったんだもん」
 
 そんな言葉、きっとえんちゃんには一生かかっても言えないだろう。
 だが、えんちゃんが持ち合わせた愛橋や不器用さが生む可愛らしさも、ユリには一生かかっても手に入らない。
 それを分かっていたからこそ、ユリは自分からえんちゃんに近付いたようにも思う。
 何もえんちゃんが一方的にユリに嫉妬していたわけではない。
 
 自分は自分以外の何者にもなれないから、人は人生でいつだって他人に嫉妬するし苦しみもするし悩みもする。そして孤独を感じる。

「みんな寂しいんだから、寂しいなんて言っても意味ない」

 えんちゃんは分かったように強がるけれど、彼女だってやっぱり誰かに寄り沿いたい。
 そんな彼女の気持ちが、悲しくて辛い思いが、じわじわと伝わる。
 それは彼女の言う通り、寂しくて苦しくて無力感に包まれて他人と関わることが馬鹿馬鹿しくて、それでも誰かと寄り沿えることを願ってしまうこの感覚を、僕らの誰もが知っているからなんだろう。

 
(2007年/日本/井口奈乙監督)

| 映画 ☆☆☆☆☆ | 02:56 | comments:0 | trackbacks:2 | TOP↑

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ショートバス (試写)

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―12歳の頃に 僕が探し求めていたものを
 僕は未だに探してるんだ―


 名作と呼ばれる『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』を僕はまだ見ていない。そのことを強く後悔した。それほどに、このジョン・キャメロン・ミッチェル監督の新作はいい映画だった。

 冒頭からAV顔負けのアクロバティックセックスを披露し、何度も絶頂に達した(かのように見える)女性、恋愛カウンセラーをしているソフィア。
 彼女は本当は「イッたことがない」ことを気に病んでいる。

 ここからスタートする物語では、多くのセックスが登場する。
 SMもあればゲイもあるし乱交もある。
 もはやセックス博覧会みたいな映画である。
 
 だが途中で、ただのセックス映画ではないと気付く。

 数多くのセックスを通して描かれるのはセックスそのものではなく(セックスそのものでもあるのだけれど)「愛」であり「人」だ。
 どう生きるのか、どう生きればいいのか。それに一律の答えはないし、答えなんてそもそもあるかどうかも分からない。
 自分の中にあるわだかまりや掴みきれない感情を抱え、傷つくのを恐れ、誰かに拒否されることに怯えるぼくらは、どう生きていくべきなのか。
 それは誰にも分らない。

 じゃぁ分らないなら分らないと笑い飛ばしてしまえばいい。
 分らないなら分らないと泣いてしまえばいい。
 
 そんな単純なことを今さら…、と誰もが思うが、そうすれば楽になれることも承知なのに、人はなかなかそう出来ない。

 そんな、人の心の中にある固い塊、多かれ少なかれ誰もが持っているであろう後ろめたさや頑固な部分や、そういったものをそっと溶かすような温かみが、この映画にはあったような気がする。

「それでいいんだよ」と心に迫る優しさが全編に流れる。ラストシーンで街中に灯りがともったように、登場人物たちの心にも小さなひかりがともったように、観ている人の心にも同様に、小さな、けれども確かなひかりがともるような映画だった。

 辛いことがある人や、苦しかったり、我慢することになれていたり、悲しかったり、そんな人はすっと肩の力を抜いて、こんな映画を観てほしいなぁと心から思ったのでした。

 笑ってもいいんだろうか、泣いてもいいんだろうか、そんな全て静かに肯定してくれるような、どうしてこんな簡単なことが出来なかったんだろうと思わせてくれるような、優しさと温かみがいっぱいに溢れた映画。

 鑑賞後の気分は最高にいいと思います。


(2006年/アメリカ/ジョン・キャメロン・ミッチェル監督)

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