たいようの映画の感想

映画を観て感動しても、少し時間が経てば結構忘れてしまうんです。そんな忘れんぼうな自分のための記録なんです。 が、最近はいろんなジャンルに手を出して書いてます。

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【書評】山崎ナオコーラ『論理と感性は相反しない』(講談社)

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 コーラが好きだからという理由の安易なペンネームを持つ山崎ナオコーラという作家が『人のセックスを笑うな』という強烈なタイトルの作品でデビューを飾ってから約3年。短いセンテンスと改行の多さや情緒的な描写は最近の若者に好まれる、もしくは最近の若者が書きがちな恋愛小説の典型のような文体であったが、『人のセックスを笑うな』には他にない独特の間と情感に溢れ、芥川賞の候補にもなり、映画化(→映画版『人のセックスを笑うな』)もされてヒットを飛ばしもした。しかし華々しいデビューから2年の間が空き、ようやく2作目の『浮世でランチ』(河出書房新社)、続くエッセイ集『指先からソーダ』(朝日新聞社)、再び芥川賞の候補になった『カツラ美容室別室』(河出書房新社)と続けて刊行された。新人文学賞を受賞した作家はその1年以内、つまり話題性が消える前に受賞後第1作を刊行するのが通常だ。だが山崎ナオコーラはそれをしなかった。
 なぜか?
 それはこの新作を読めば、なんとなく分かる。


 *  *  *  *  *  *


 この短編集は、異様だ。
 まず、それぞれの話に一貫性がまるでない。恋愛の話、小説家の女が人間関係に悩む話、時代モノ、言葉で遊ぶだけの非物語、かと思えばいくつかの話の登場人物が薄らとリンクしていたり、突如として外国人が登場したりする。さらに『プライベート』など数編に登場する《矢野マユミズ》は、あからさまなほどに山崎ナオコーラ自身を描いているように思える。小説家にとって「自分のことを小説にして書くこと」とはもっとも格好悪いことであり、もっとやってはいけないことのひとつであるはずなのに。
 一貫性を放棄し、今までの短編集の通例や慣習、ひいては小説のそれをあざ笑うように無視しているように思える。

 小説の中に登場する《矢野マユミズ》が、山崎ナオコーラ自身の分身なのか、それとも自身の分身のように描かれた全く創作の人物なのかは分からないが、もしも後者であれば彼女は相当に巧みに読者を操ることに成功しているし、前者なのだとしたら相当の覚悟でこの本を書いたことだろう。
 《矢野マユミズ》は、こう語る。

《私は「出版界」なんてものの中で仕事してんじゃねぇ、ばか。
 文章は「出版界」で生まれるんじゃない、現場で生まれるんじゃ》


 この一文だけを抜粋すると、彼女がいわゆる文壇というものにかなり攻撃的な思想を持っているのかと思うかもしれないが、決して攻撃的な言葉だけではない。この作品の中で《矢野マユミズ》は、小説を書くという仕事の苦悩や恋愛との両立や編集者や友人への感謝の気持ちを、心の中で繰り返し呟く。


  *  *  *  *  *  *


 彼女は普通のOLから突如としてデビューし、さらにデビュー作は映画化までされ、彼女の生活はあっという間に激変しただろう。そして自分と自分を取り巻く環境の変化にとまどい、様々な疑問や鬱屈を溜め込んできたのだろう。これは小説家に限らず世に出るものを作る人であれば多かれ少なかれ経験することで、それぞれにそれぞれの方法で昇華し、昇華しきれなかった人はその感情に縛られて次のステップへと進むことはできない。
 僕は『指先からソーダ』と『カツラ美容室別室』は未読なのでそれについては触れられないが、『浮世でランチ』は全く持って面白くなかった。芥川賞の候補になるくらいの書き手なのだから、当然書き方は上手いし、語り口も饒舌だ。だが面白くない。『人のセックスを笑うな』で感じたような麗しい情感をまるで感じられなかったし、読んでから1年以上が経った今、どんな内容だったかももはやうろ覚えだ。山崎ナオコーラはどこに行くのだろうか、読了当時そう思ったことはよく覚えている。
 今思えば、彼女も読者も『人のセックスを笑うな』のイメージに縛られていたのかもしれない。

 そしてその大きなイメージの壁を破るための作品が、さらに多くの重い感情を昇華するために彼女がとった方法が、この本だったのではないだろうか。

 一見安易で直接すぎる昇華方法に思えるが、この作品はひと時も飽きることなく読める。立派なエンターテインメントなのだ。

《プライベートの概念をなくしていこう。自分を公のものにしていく。
 もう、小説家としての自分を、本来の自分から切り離すことはできない。》


 これも《矢野マユミズ》の言葉だが、山崎ナオコーラが即ち《矢野マユミズ》であろうとなかろうと、これは彼女から世間への、そして自分への宣言なのだろう。
 
 帯に『これが私の代表作です』とでかでかと書くほどに、デビュー作以外が話題に上ることがあまりなかった彼女の満を持しての書きおろし作品。その言葉通りに、不思議な力強さにぐいぐいと引き込まれて読まされて行くような感覚や、メランコリックな匂いなど、様々な山崎ナオコーラを読むこともできる。
 読み終えたあと、これから日本の小説の概念をひっくり返し、さらに牽引していくような存在に彼女はなるのではないかと思った、爽快な一冊。


(2008年/講談社) 

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【漫画評】浅野いにおの中に潜むプンプン的感情

ああ
 
 浅野いにおは語りかける。

 少しでいいから希望を持とうよ、と。
 こんな世の中も笑い飛ばしてしまおうよ、と。

 シリアスな感情をシリアスに捉えるのにはもう疲れてしまった。
 受け入れてしまおうよ。
 そして少しでもいいから前を向こう。

 とてもとても小さな声で、彼は語りかける。

《『ああ、なんて素晴らしい世界だ』  嘘でもいいからそう思ってみれば、 昨日よりちょっとは楽しい気分。かもですよね。》(『素晴らしい世界』より)


  *  *  *  *  *


 書店で浅野いにおの特設コーナーが作られるくらいに売れていると知ったのはつい最近のことだ。
 優柔不断でパッとしない登場人物たち、文字量の少なさ、叙情的な描写。
 この手の漫画が売れてきたのがいつ頃からなのかを僕は正確には知らないが、僕の中ではきっかけは矢沢あいだったんじゃないかと思う。

 文字量の少なさや絵の綺麗さ=読みやすさ、単純さがウける時代になった、などとシンプルに言うこともできるかもしれないが、要因はきっとそれだけではない。
 例えば岡崎京子がいまひとつメジャーではないながら絶大なる人気を保ち続けてきたことにも通じるかもしれない。南Q太や魚喃キリコややまだないとなどもそうだ。

 先日、ゲイでありコラムニストであるマツコ・デラックスさんにお会いしたのだが、彼女は「汚い物にフタをしたものが売れる時代なのよ」と言っていた。

 人間の汚い感情がまだ露にされなかった時代に人間の業や欲深さをセンセーショナルに描いた、永井豪の『デビルマン』が一世を風靡してから数十年、人は人が持つ汚い感情を嫌というほど目の当たりにし、自分の中に潜むそれらと嫌というほど対峙してきた。

 そしてロマンチシズムに浸り、汚いものにふたをした幻想的作品が売れるようになった。

 その流れの中で、前出した岡崎京子や南Q太は柔らかいタッチながら、オンナの中にある汚さや意地悪さを惜しげもなく抽出し、共感を得た。彼女たちの作品に共通するのは、オンナとしてのやり切れない哀しさが含まれていることだ。

 そこに読者はリアリティを見たのだろう。そして、哀しみを哀しみとして吐き出すだけでなくそれらの感情を肯定しているかのような作者の潔さに、読者は惹かれたのだろう。


  *  *  *  *  *


 少し話がそれてしまったが、浅野いにおについて特筆すべきは、彼が男性であるということだ。
 かつて漫画といえば勧善懲悪のヒーローものがスタンダードで、週間少年ジャンプがバカ売れした時は「努力」「友情」「勝利」の3大テーマが漫画には絶対不可欠だと思われていた。よって若き漫画家はこぞってそこを目指した。

 しかし浅野いにおは、若干22歳の時に『素晴らしい世界』で連載デビューを果たす。
 そこにはヒーローも悪も存在しない。
 そして恋愛模様も垣間見えない。
 SF的要素も存在しない。

 あるのは普通の街の普通の日常、そこで営まれる人間の生活の一見幸福そうに見える中に潜む孤独や悲しみや可笑しさ。
 そしてそれらを肯定して包みこむような暖かさだ。
『ひかりのまち』においても、恋愛を用いた『ソラニン』でも、この主題は変らない。
 
《とういか、他人の死も この小奇麗な住宅街も、 未来の自分の姿さ
えも 僕には全然現実味がなくて 時折感じるこうした孤独感のほうが ずっとずっとリアルだなぁ。》
(『ひかりのまち』より)

《平坦で退屈で曖昧な日常を生きているわたし達からは、悩むために悩んでこねくりまわした贋物しか産まれない》(『ソラニン』より)

 だがそれまで作風とかなり乖離した『虹ヶ原ホログラフ』で、彼の心の深淵が垣間見える。
 無慈悲であり、無感情で、無機質な違和感。あの井戸の底のように、暗く淀んだ感情の吹き溜まりが顔を覗かせる。
 彼はなにかに絶望している。

 たかが20歳そこそこで、と年配の人は口を揃えるだろう。だが彼は、僕らはみな、絶望しているのだ。
 社会に? 大人に? それとも自分に? それは分からない。得体の知れない何かに、だ。

 だが浅野いにおは上を向く。受け入れて笑い飛ばそうとする。
「どうにもならないさ」と諦めることをポジティブに受け入れる彼の気持ちと、それでも大手を振って「希望だぜ!!」なんて叫ぶことへの気恥ずかしさが、ヒヨコだかなんだかよくわからない生き物を擬人化して主人公に据えた新作『おやすみプンプン』で分かりやすくポップに表現されている。

 時々現れてプンプンに突っ込みを入れる八嶋智人風の神様は、自分に浸りきれない自分へ向けた自分からの声。
 あぁやって人は「もうひとりの自分」とちょっとずる重なりあって大人になるのかもしれない。

 誰かを好きになることの苦しさ、なんてイマサラすぎるテーマを、プンプンという謎の生物を通して滑稽に描く彼はもはやただの若手漫画家ではなく、漫画を用いた巧みな表現者だ。


  *  *  *  *  *


 プンプンの可笑しさと格好悪さと悲しさは浅野いにおのそれであり、同時にぼくらのそれでもある。

 本当は格好よく生きたいけれど、でも格好付けて逆に格好悪くなるのが嫌でうまく振舞えない僕たち。
 孤独じゃないハズなのに拭い去れない孤独感と、肥大化する焦燥感と、あの日になりたかった僕になれないままの僕。

 そんなダメな自分を、笑っちゃえよと浅野いにおは言う。
 一回思い切って泣いて、そしたら明日から笑い飛ばせるようになるさ、と。

 浅野いにおはそんな風に、僕たちに語りかけ、同時に自分にも語りかけている。
 彼の漫画を読んでいると、そんな気がしてならない。

《それでもプンプンはやっぱり、愛子ちゃんが好きでした。でもいくら泣いても プンプンは今 地球上でひとりぼっちでした。 》(『おやすみプンプン』より)

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【音楽】チャットモンチーは本当に『奇跡』なのか

 ある人たちはチャットモンチーを奇跡と呼ぶ。
 普通の女の子3人が、手を繋いでひとつのステージに立つことになった巡り合いの奇跡。
 奏でられた唄たちが、多くの人の心を捉えて震わす奇跡。
 彼女たちが出会い、ここに至るまでの確立は何万分の一だろうか。それとも何億分の一か。
 だから彼女たちは「奇跡のガールズロックバンド」と呼ばれる。

 だが奇跡と呼ぶのであれば、山口隆や峯田和伸みたいな突然変異種がメジャーラインに上がってきたことのほうがよほど奇跡のように僕には思える。
 だってチャットモンチーは、どこからどう見たって、普通の女の子でしかないのだ。

 街ですれ違ったくらいではきっと彼女たちの存在に気付かないだろう。
 おそらく電車で隣の席に彼女たちがいたとしても、余程のファンでない限りは気付かないだろう。
 どこまでも普通なのだ。

  *  *  *  *  *

 見た目はもちろん、唄う言葉の多くも非常にパーソナルだ。
《キレイなとこだけ残して、録画、編集》 (プラズマ)
 親が電機メーカーにお勤めなのか? と勘ぐりたくもなる詞だ。
 こんなどうでもいいようなフレーズを唄う歌手は少なからずいるかもしれないが、ヴォーカル橋本は声を張り上げて全力で唄う。自分の過去の恋愛の痛々しさを唄う時も、家族への想いを唄う時も、彼女は全力で声を張る。

《言ってはいけないことを言ってしまうたび どんどん私ブスになった》 (Make up! Make up!)
《不器用な生き方なんて 望んじゃないよ 神様が助けてくれるって信じさせて》 (Y氏の夕方)
《たまに帰ればご馳走 もう子供じゃないのにね あぁだけどやっぱり あなたの子でよかった》 (親知らず)

 チャットモンチーはメンバー3人がそれぞれに詞を書く。24歳と25歳の彼女たちが書く詞は自身ととても距離感が近く、文芸の世界では最近の若者が書く小説を「自分から半径50mの世界」(正確ではないかもしれないが)なんていう風に揶揄したりもするが、彼女たちの詞の多くははまさにそれに当たる。

 だが不思議なことに、非常にパーソナルな感情を唄っているのに、それがとても普遍的な内容を叫んでいるように聞こえてくる。鋭利な言葉やセンシティブな言葉を扱っているわけではないのに、三人の演奏が交わり橋本の喉を通って発せられたそれらの言葉は瑞々しく、情感豊かに聴き手の耳に届く。
 ありふれた言葉で語られる感情は、スリーピースというシンプルなメロディーと共に、親しみをもって響く。
 彼女たちの歌は多くの、主に若い女性たちの心を捉えた。一見あまりにも普通な彼女たちが鮮やかな感情を唄い上げたことは、さらに厭世感とも呼べる言葉すらポップに唄いあげたことはセンセーショナルであり、過去に例を見ないことだった。

 だが、彼女たちのパーソナルな感情は、多くの女性たちのパーソナルでもあった。
 なぜなら、彼女たちは本当に「どこにでもいる普通の女の子」であったから。

「まるで私の感情を歌ってくれているような唄だ」
 きっと多くの人たちがそう感じたのだろう。

 普通の女の子のパーソナルな感情をシンプルな言葉と音で響かせ、さらにそれを堂々と歌い上げる 彼女たちの姿勢こそ、チャットモンチーがここまで短期間でセールスを伸ばし、女性バンドとして史上最短での武道館公演を成し遂げた所以だろうと思う。

 武道館公演の達成とは、彼女たちのパーソナルが、多くの人たちの心を潤す普遍性に変った瞬間でもあった。


 *  *  *  *  *


 パーソナルなことを叫びあげると言えば、真っ先に想い浮かぶのが前出した峯田率いる銀杏BOYZだ。彼らもまた、自身のパーソナルな(時にパーソナル過ぎる)感情を音に乗せ、そこに普遍性と共感を見出した観客たちによって盛り上げられてきた。
 しかし決定的に違うことがある。それは突き詰めて簡略化すれば、男女の差のように思う。
 峯田はどこまでも内に潜って詞を書く。言葉にしたため、ライブで唄い、観客にツバを吐き、裸になり、骨折しながらも唄い、それでもきっと彼の中にくぐもった感情は昇華されない。“佳代ちゃん”や“チヒロちゃん”への想いはきっとこれからも一生彼の胸でくすぶり続けるのだろう。彼らの歌で唄われる多くの言葉は、今現在進行中の、彼の思い。
 昔の恋をいつまでもダラダラと未練がましく思い出してしまう、情けない男の象徴のような人だ。

 だが橋本は、福岡は、高橋は、違う。
 福岡や高橋は自らがしたためた詞を橋本が歌うことにより、橋本はかつて自らしたためた詞を歌うことにより、それらの感情をきれいに昇華し、自分のものとし、前を向いて過去の感情を誇るように唄う。悲しみも、切なさも、やり切れなさも、苦しさも、彼女たちのもとにはもうない。
彼女たちが唄う負の感情は全て過去のものだ。

 だからこそ聴き手は、前を向いて高らかに歌い上げる彼女たちの叫びを心地よく聴くことが出来る。
ポップに彩られた彼女たちの音楽は、ツバを吐かなくともギターを叩き割らずとも、僕らの胸にすっと入り込む。
『恋愛スピリッツ』のような絶望の淵のように切ない曲でも、間奏で橋本は照れるように笑顔を振り撒ける。 
 とびっきりキュートな笑顔で。

《あの人がそばにいない あなたのそばに今いない だからあなたは私を手放せない》 (恋愛スピリッツ)
《私が神様だったら こんな世界は作らなかった 愛という名のお守りは結局からっぽだったんだ》 (世界が終わる夜に)
《口から出るのは 半分 文字にできるのは10分の1 〜 本物は高価すぎて私には似合わない 
 あなたの心が全部見えたら 私はひどく落ち込むでしょう》
(リアル)


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 今日、僕は武道館公演(『チャットモンチーすごい2日間in日本武道館』)を観てきた。満員である。普通の女の子3人のステージに。
 今や、チャットモンチーのファンは男性が多いようだ。音楽云々よりも橋本絵莉子の萌え〜な外見とキャラクターや、ミクロな外見からは想像もできないような演奏時のパワーのギャップに惹き付けられたファンだろうが、、ファンであることに変りはない。
 愛されるキャラクターを持っているということも、音楽で食って行く上ではとても重要なことだろう。

 歪んだギターの音、橋本の声をかき消すくらいにズンズン響いてしまうベースの音、ちょっと走りすぎている感があったドラムなど決して抜群に上手だなんて言えない演奏、演出や見せ場の少なさ、2時間足らずというワンマンとしては比較的短いライブ時間…。
 しかしそれでも不思議と「これがチャットモンチーです」という自信と喜びがひしひしと伝わる。
 考えて見れば当然のことだ。彼女たちは長いツアーも、そして今日も、たった3人でステージに立ち、自分たちの曲と多くの観客たちと対峙し続けてきたのだ。たった3人で。
 
 演奏的な拙さや音の歪さすら彼女たちの個性として、多くの人たちと変らない『等身大の女の子』であるチャットモンチーとしての魅力の一部となっているのだ。
 演奏がズレればズレるほど、彼女たちに込み上げる感情に胸が痛くなる。
 ギターの歪んだ音が会場に響くほどに、彼女たちの胸にある焦燥や、この日に辿りつくまでの苦難が迫ってくる。

 デビュー時の曲から満遍なくセットリストを組んだ武道館公演二日間は、まさに彼女たちの最初の集大成となっただろう。


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「おばあちゃんになってもチャットモンチーをやっていたい」とよく3人は言うが、もしかしたら、と思う。
 もしかしたら、この3人だったら、そんな夢のような話が現実になるのかもしれないと。
 世界に対するやり場のない怒りや孤独や苦しみや不安などの感情はをすっかり昇華しきってしまったように見える彼女たちだが、これから突き抜けるようにポップな路線に進んだとしても、もしくは新たに生まれる苦しみを歌に乗せるようになったとしても、もしかしたらと。
 ヨボヨボのババアになった3人が、自分の体くらいにデカイ楽器を前にジャカジャカ音を鳴らす光景。

 そんなステージが想像できてしまう彼女たちは、普通であるクセにやっぱり特別で、この3人が揃ったことはやはり奇跡だったのかもしれないと思わずにはいられない。

 手軽な販促的キャッチフレーズとしての『奇跡』なんかではなく、本当の意味での『奇跡のロックバンド』に、もしかしたらこれから彼女たちは本当に、なるのかもしれない。

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